雪田きよみ物語

2016年、初めて市議選に立候補したときに皆さまにご紹介させていただいた私のプロフィルです。

―雪田きよみさんは、現在「きよみ野」に住んでいます。「きよみ」が「きよみ野」在住なんて、不思議なものですね。何かの縁かもしれませんね。

でも、生まれは愛知県なんですよ。それも、自動車で有名な豊田市から東北東へ35キロほど入った山間部の町で、稲武(いなぶ)という所で育ちました。
稲武町は、愛知と岐阜と長野の県境にあり、山と川しかない「空が狭い」山奥でした。

父は山から石を切り出す石工の仕事をしていました。
わたしが中学生の頃、父が体を壊し働けなくなると生活はいっそう苦しくなり、読み書きが出来なかった父はお酒に溺れるようになりました。
父に恐怖を抱いていたわたしは、町役場に勤めている叔母を頼り、岐阜の恵那北高校へ通わせてもらいました。

やはり山の中の学校で、10キロの山道を通わねばなりませんでしたが、解放された気持ちになりました。
学問に理解のない父に大学へ行きたいと言い出すことができず、わたしは高校を卒業すると、国立名古屋病院付属の看護学校へ進学しました。

―共産党員として生きる決意をしたのは?

当時の国立看護学校は、入学金も授業料も無料。学生寮も無料でした。
でも、わたしは次第に看護教育に不満を持つようになりました。2年生から3年生のカリキュラムは、その大半が実習に当てられ、その実習はけっきょく現場の看護師不足を体よく補うものに思えたからです。
「看護師はたんに病人の世話をするのではない。看護とは実践的科学なのだ」と聞かされましたが、どうしても看護師は、「お医者さんのお手伝いさん」としか見えなかったのです。

そんなとき、同室の三年生の先輩が看学連の副委員長をしていたのですが、「看護学生の地位向上のためには、女性だろうと一人ひとりが人間として尊重されるように闘わねばならない」
「女性や子どもや、障がい者やお年寄りなどの社会的弱者を大切にする社会をいっしょにつくりましょうよ」と励ましてくれました。
その先輩が日本共産党の党員でした。

女性で戦地に赴いたのは、従軍看護婦だった。
そんな歴史を繰り返す社会にしてはいけないと考えるようになったわたしは、このとき戦前・戦中を通して戦争反対を訴えた日本共産党の一員になりたいとみずから思いました。
以来、35年、わたしは日本共産党員として生きてきました。

​雪田きよみ物語02

ー本当の優しさの意味を知る

もう一つ、看護学生時代に学んだことがあります。たしか、二年生のときです。
耳鼻咽喉科の実習で担当した女性の方は、重い舌癌でした。体の表面にできる癌は、それが大きくなると、やがて崩れ始めます。そのときなぜか、ひどい悪臭を放つのです。
その女性は、舌にできた癌が崩れ、個室に入っていましたが、室内にはその臭いがいつも立ちこめていました。さらに舌が動かなくなっていたので、しゃべることも困難でした。わたしが行くといつも暗い表情でベッドに横たわっていました。
わたしは担当学生として、その女性とどのように接したらよいのか戸惑いました。

でも、辛い病気であることや、訪れる人もいない状況を考えたとき、その女性に寄り添うしかないと思い、時間の許すかぎり彼女の部屋へ行き、声をかけ続けたのです。
そうしたわたしの心の変化が伝わったのか、次第に会話ができるようになり、彼女の表情が穏やかに変わっていきました。
患者さんのこころの痛みを理解し寄り添えば、どんな患者さんでも心を開いてくれる。豊かな時間を共有することができるということをその女性はわたしに教えてくれました。


ー精神科医療にふれる
看護学校を卒業したわたしは、そのまま国立名古屋病院に勤務することになりました。
配属されたのは精神科病棟でした。その頃は、精神科というと患者を鍵付きの病室に閉じ込めてしまうのが一般的でした。
しかし、国立名古屋病院の精神科病棟では、鍵をかけない医療、患者を閉じ込めてしまわない医療を展開していました。
そのため、患者さんがいつのまにかいなくなってしまうことがありました。それを探すために何度白衣姿のままで街を、繁華街の中を走り回ったことでしょう。
認知症も併発した患者さんの病気が進み、自分で歩くこともできなくなったとき、こんな言葉を口にされたことがありました。
「このごろ、横着な人間になってしまった」 と。
認知症になったからといって、何も分からなくなってしまうわけではない。その方なりにじつは分かっていて、いろいろできなくなった自分に対し残念な気持ちを抱いている。
認知症の患者さんへのケアは、その事実を胸に刻んで行わねばならない。わたしは精神科でそのことを学びました。

それから三年八ヶ月、わたしは名古屋の病院を退職して東京勤労者医療会代々木病院に転職しました。
そして、そこで夫と知り合い結婚しました。せっかく他の医療機関の実態を学ぼうと、東京へ出てきたのに、その目標が達成できないまま埼玉の浦和市で新生活をはじめ、まもなく長男を出産しました。

​雪田きよみ物語03

夫と、長男と、わたしの3人が、埼玉県の浦和で暮らし始めたのは、昭和が終わる2年前の、1987年のことです。幼い頃、父親に怯えていたわたしにとって、自分の子どもを持てたことは、何ものにも代えがたい大きな喜びでした。
そして夫が忙しい仕事であるにもかかわらず、子どもとのスキンシップを大切にしてくれたことが、父親不信のわたしの心を癒やしてくれました。

程なくして、浦和の賃貸マンションから三郷に引っ越すと、数ヶ月もしないうちに、その父親が脳梗塞で倒れた、という知らせが届きました。幸い、父は以前わたしの勤めていた名古屋病院に入院することができ、その後は愛知県の渥美半島の先端にある特別養護老人ホームに入ることができました。
幼子を抱えているわたしにとって、「特養」への入所は本当に助かりました。

仕事の合間を見つけて愛知へ通ったとはいえ、遠隔地の壁は大きく、こうした介護施設の在ることがどんなに大事なことなのかを痛感しました。しかし、父は入所した一年後、手篤い看護もむなしくその施設で息を引き取りました。
先が長くはないから、最期に好きなものを食べさせたいと聞かれ、お酒とお刺身と答えると、職員の方がそれを用意して下さりました。
わたしはそのケアに心から感動し感謝しました。

長男を産んで5年後、2人目の子を授かりました。次男はおっぱいをたくさん飲むのに、体重がまったく増えませんでした。生まれたときからアトピーがひどく、さらに喘息にもなり、病院通いの毎日でした。
それでもわたしは、子育ての他に何かをしたいと思い、放送大学の受講をしたり、派遣の仕事(パート)を始めたりしました。

―それで看護師に戻ったのですね

はい。みさと健和団地診療所に就職したのは、次男が3歳のときでした。とはいえ、子供の病気で休むことも多く、女性が働き続けるには「病児保育」の制度がどうしても必要だと思いました。
そしてまもなく診療所の外へ出る訪問看護に携わるようになりました。
訪問看護の仕事は一見簡単そうに見えますが、じつは非常に責任が重いものがあります。しかしその分たいへんやりがいのある仕事でもありました。

1997年当初は、「老人保健法」がまだ適応されていて、訪問看護の利用料は、無料でした。ところが訪問看護ステーションを立ち上げ、そこから訪問するようになると、利用料は1回につき250円になりました。
さらに2000年になり「介護保険」がスタートすると、利用料は八三〇円にはね上がりました(週二回の利用で月に換算すると、およそ2000円から6640円への値上げとなります)。
わたしはこの金額の変遷に、自民党政治の高齢者にたいする姿勢を見たようで、つよい怒りを覚えました。
そしてこの政策に正面から反対の声をあげていたのは、日本共産党でした。

介護活動と事業経営の狭間で

2001年8月、私たちは三郷を離れ、この吉川に引っ越しました。
きよみ野に転居して一年後、今度は医療生協さいたまの在宅介護事業所で働き始めました。はじめはパートで働くつもりが、半年もたたないうちにその事業所の所長になっていました。
そこで職員さんたちと相談し、ある民家をお借りしてデイサービスを始めることにしました。
2005年9月、ようやく開設にこぎつけ、一八畳のリビングルームと八畳の和室がある「たんぽぽの家」を得ました。
わたしの担当した患者さんの一人に、55歳の松岡さんという方がいました。彼は、脳梗塞から生還し、様々な病院を転々としながら二年間リハビリを続けていました。右半身に麻痺があり、しかも胃瘻から栄養をとっており、喉の穴からは痰などを吸引する処置が施されていましたので会話が充分にできません。
ふつう、健康だった人が人生の途中でこのような重い障がいを背負うと、前向きに生きていく気持ちが失われ、うつ状態になりがちです。ところが松岡さんは口から食べたい、外を歩きたい、人としゃべりたい、という強い希望を抱いていました。
彼は車いすで「たんぽぽの家」に来ると、わたしの提案を受けて、麻痺のない左手でパソコンを打ち、左手だけでデジカメを撮り、「たんぽぽの家」の行事を知らせる通信を発行するようになりました。
そしてパソコンでわたしと会話をしながら、自分の病歴を左手でつづり、闘病記『つくしんぼ』を数年後に出版されたのです。

そのときもわたしは、改めて本当に驚き、障がいがあっても社会の中で普通に暮らせるように支援する看護師の喜びというものを学びました。
しかし、開業して3年後の2008年二月、「たんぽぽの家」は事業を閉じることになりました。
1日8名の最大利用者を受け入れたとしても、当時の介護保険制度のもとでは経営を黒字にすることができません。経営を黒字にするには、1日10名以上の利用者がどうしても必要だったのです。
そうなると対策として、広い所へ越すか、施設の建て替えをしなければなりません。結局「たんぽぽの家」をある医師にゆだねるしか方法がありませんでした。
そのことによって多くの人にご迷惑をかけてしまったことは、申し訳なく思っています。

​雪田きよみ物語04

ふたたび訪問看護へ

その後わたしは、医療生協さいたまの訪問看護ステーションの管理を任される事になりました。2009年に、半年間の研修を受け、翌年、『訪問看護認定看護師』の資格を取得しました。そして、看護ステーションの新入職員研修や管理者研修、法人看護部の研修の講師もつとめ、これから超高齢化社会を迎える日本の看護医療をどのように改善していけばよいかを模索してきました。
その中で避けて通れないのが医療に対する財源の問題でした。

訪問看護の利用料は決して安くはありません。どんなにサービスを必要としていても、支払いのできない方がいます。とくに辛かったのは、がん末期の、ある男性に会ったことでした。今はがん医療もかなり進んでいますので、がんの痛みはほぼ確実にとることができます。
しかしその方は、お金が支払えないために、訪問看護も往診も受けることができず、かといって病院へ行くためのタクシー代を払うこともできませんでした。
もちろん入院も困難でしたので、激しい痛みを抱え、自宅でずっと耐え続けていたのです。こんな辛い話はありません。
どんなに医療が進歩しても、お金がなければその恩恵にあずかることができないのです。

アメリカへの思いやり予算や軍事費には多額のお金をつぎ込んでも、がんの痛みに苦しんでいる人には、それほど充分な手を差しのべてはくれない。そんな社会保障のあり方にわたしは大きな疑問と憤りを持っています。

新しい仕事への決意

現在は、看護大学の非常勤の助手をしています。
そんなわたしに日本共産党から吉川市政への参加のお誘いがあったのは昨年の秋のことです。これからの吉川市で必要とされる「医療と介護の問題」に取り組んで欲しい、というものでした。
市政への挑戦など、これまで考えてみたこともなく、どう返事をしたらよいか、まったく分かりませんでした。

その話を職場の教授に相談すると、次のように言われました。
〝それはすごいチャンスだと思う。在宅看護や介護の現場で働く看護師なら誰でも、介護保険が今のままでは駄目だということを知っている。それを知らせるために、直接吉川市民に訴えるということは、制度そのものを、介護保険の運用を実際に変えていける立場になるということだ。
ぜひ、挑戦してみるべきだ。
そして、吉川の街から介護保険の制度を変えて、全国に、「こうすれば良くなる」ということを発信して欲しい〟

この言葉に背中を押されて、わたしは新しい仕事をする決意をしました。
わたしは、自民党政府の「税と社会保障の一体改革」によって、どんどん悪化している国民生活と社会保障の問題に、先ず取り組んで行こうと思います。
また、わたしがこころにかけている問題は、乳がん検診の問題です。
いま日本人の死因第一位は癌で、それも死因の三分の一を占めています。とくに乳がんは女性の癌の20%をしめる病気で、30歳代から発症リスクが高まります。現在のがん検診は、40歳から受けられますが、わたしは乳がん検診を30歳から行う必要があると思います。

わたしの姉も32歳で乳がんを発症しました。そのとき双子を身ごもっていたのですが、妊娠の継続を途中であきらめました。
この吉川でも、有名なタレントの北斗晶さんが最近乳がんの切除手術をされました。わたしは、女性のいのちと健康を守るためにも、「乳がん検診は30歳から」を実現していきたいと思っています。