「コーダは揺れるもの」

2021年07月24日

『ろうの両親から生まれた僕が聞こえる世界と聞こえない世界を行き来して考えた30のこと』(五十嵐大著 幻冬舎)を読みました。
すごく考えさせられる本でした。

コーダ(CODA)=ろう者の親を持つ聴者は、全国に約2万人いるそうです。
恐らく誰だって親を肯定しながら否定する、否定しながら肯定する・・・、特に思春期ころからはそんな時期を経ながら「自分」を確立していくものだとは思います。
けれど、聴覚障がいの親のもとに生まれた子どもならではの、苦しい人生があるのだと学びました。
「聴こえない親を守りたい」という肯定的な気持ちと、「聴こえない親なんて嫌だ」と否定する気持ちのはざまで揺れ動くこと。
手話をうまく覚えられず、親との共通言語を見失い「自分も聴覚障害だったら良かったのに」と思い悩むこと。聴こえない親に通訳しているだけなのに、「頑張っていて偉いね」と褒められ、違和感を覚えること。
自分の境遇を「可哀そう」とは思っていないのに、社会からの偏見により「可哀そうな子ども」にされてしまうこと。
聴覚障害者は何もできない人たちという偏見の目で見られていること。
手話は聞こえない人たちを支えるための福祉ツールではなく、れっきとした言語であること。
それにもかかわらず、「聴こえるようになりなさい」という歪んだ口話教育を受けさせられていたこと。

・・・「コーダは揺れるものなんです」との言葉が、とても重く心に突き刺さりました。
聴こえる人の世界も、聴こえない人々の世界も両方が理解できるからこそ、とても苦しいのだと思いました。
聴こえればこそ、おそらく「聴者」の立場から社会を見て、聴覚障がいの方々を「何もできない人」と見てしまう心が、子ども自身の中にも生まれてしまうのでしょう。
当事者と偏見と両方を一緒に背負いながら、自身の親が聴覚障がいであることを受け止めなくてはならない・・・。
確かに、大変しんどい道のりだと感じます。
コーダに対する支援も必要だと感じます。

もう一つ学んだことは、災害時の聴覚障がい者への支援体制をしっかりと構築しなくてはいけないということでした。東日本大震災の時、東北地方の海辺の住む聴覚障がいのご両親を助けてくれたのは、ご近所の人でした。でももしそのサポートがなかったら、津波が差し迫っていることなどの情報を耳でキャッチすることのできないご両親はどう対処したのか・・・。
今はスマホがあって、情報を視覚的に見ることができるようになってきてはいますが。
真摯に受け止めなくてはいけない、大切な課題だと思いました。