「ペンは力なり」!

2021年01月10日

日本共産党吉川市議員団が隔週で発行する「新吉川」は、昨年12月の議会報告号で1,000号を迎えました。
隔週発行なので1年間で26回程度の発行、10年で260回、40年で920回。

新吉川を発行し始めたのは、まだ「町」だった吉川町の初代共産党町議、解良昇さんでした。
今日は解良昇さんにお会いして新吉川の歴史も含め、吉川市の日本共産党の歴史をお伺いしてきました。

1935年(昭和10年)、新潟県で生まれた解良さんは1964年1月の町議選挙で当選し、町議会議員になりました。28歳でした。
当時の議会には社会党の議員も二人いましたが(そのうちの一人はなんと、私の先輩、小林昭子元市議の義父さん!)、保守系の議員がほとんどの議席を占めていたそうです。

解良さんは高校卒業後、集団就職で吉川に来たそうです。
最初の仕事は農機具の販売。
会社の経営方針に疑問を抱いた解良さんは、1963年、仲間とともに中小業者の労働組合(埼玉県中小労連)をつくり、その過程で共産党に入党しました。
そしてその翌年、町議選に立候補したのです。
労働組合をつくったという実績、年配の候補者が多い中で20代の候補者だったこと、1月の真冬の選挙というのに屋外にテントを張って選挙事務所にしたという異例さ、さらに選挙カーを初めて出したということなどを珍しがられ、6位という上位当選を果たしたそうです。
保守系議員が多数を占めていたからこそ、期待もされたと感じたそうです。
でも当時は共産党への支持はまだまだ非常に低く、衆院選挙での得票はわずか13票(@ ̄□ ̄@;)!!という時代だったそうです。

当時の議会は吉川小学校の講堂で開催されていたそうです。
開会とほぼ同時に、誰かが「料亭に移動しよう」と提案し、料亭で議会を開くような「料亭政治」だったそうです。
「酒を飲めば、本音が聞きだせる」と、料亭政治をよしとするような風潮があったそうです。
解良さんは、その料亭政治を止めさせました。

当時の町議会議員の給与は月6,000円。
それが今のお金でどの程度なのかわかりませんが、一般の労働者の賃金より安く、議員の仕事だけで生活するのは困難だったそうです。
解良さんは議員活動の傍ら、電化製品販売の仕事をしていたそうです。
その仕事で赤字が膨らみ、議員活動は3期12年でピリオドを打たざるを得なかったとのお話でした。
でも解良さんが礎を築いた吉川の共産党議員団は、その後竹井喜美富さん・遠藤義法さん・佐藤清治さん・小林昭子さん・大友さん・高野昇さん、そして私、さらに飯島正義さんへと広がり、引き継がれています。
昨年の市議選で私の選対部長を務めてくださった戸張勝弘さんも、解良さんが1期目を務めていた時期の町長選に伴う補欠選挙で当選し、1年間町議を務められました。

新吉川を最初に発行したのは、1964年、解良さんが初当選した年の4月でした。
以後、議会のたびに発行し、またことあるごとに発行を重ねてきました。
解良さんが原稿をつくり、加須市に住んでいた当時の共産党埼玉東部地区委員長だった古末さんの奥さんがタイプを打ち、地区委員会で印刷し、新聞に折り込み発行していたそうです。
メールなどなかった時代の話なので、原稿やタイプ打ちしたもののやり取り、印刷などのための往復にも時間を要し、発行を続けることはとても大変だったと思います。
解良さんは、議員歳費のかなりの部分新吉川の発行のためにつぎ込んでいたそうです。
保守系議員が多くを占める議会の中で少数派の共産党議員は孤立しているようでも、新吉川の発行により議会の雰囲気が変わる、傍聴者が増える、それが味方となり、決して孤立してはいなかったと解良さんは振り返ります。
「ペンは力なり」と。
個人の力は限度があります。
しかし、ペンで残していく・・・。
でたらめなことは書かない。
住民の正義を否決してしまう保守系議員の姿勢もそのままに記載する。
保守系議員は反論のしようがない、100人力。
だからこそ、共産党は少人数でも潰されない。

新吉川発行の意義を、そんな風に話してくださいました。
解良さんが発行したのは70数号まで。
昨年病気を患った解良さんは、手元に残していた新吉川を処分してしまったそうです。
もう少し早く伺っていたら見せていただけたかも・・・。
とても残念です。


遠藤さんが新吉川を引き継ぎ、その後の議員団で1000号まで発行してきました。
吉川市の共産党の長い歴史と、その重みを実感します。
新吉川の発行を途切れさせることなく続けていく責任を、改めて感じています。