『女たちのシベリア抑留』

2021年11月05日

『女たちのシベリア抑留』(小柳ちひろ著 文藝春秋)を読みました。
敗戦時シベリアに抑留されたのは男性だけではなく、1,000人近い女性たちも抑留されていたということで、その女性たちに焦点をあてたルポルタージュです。

スターリンは1945年8月23日、「極東、シベリアの環境下での労働に肉体面で適した日本人捕虜を50万人選別すること」という極秘指令を出していて、スターリンの決定のもとでシベリア抑留が行われていたことが既に明らかになっています。
実際に抑留された日本人は57万5千人といわれていますが、そのうちの約1,000人が女性。女性たちの主な仕事は従軍看護師電話交換手などで、その他民間人、中でも外国語が話せた女性がスパイ容疑で抑留されたというようなお話もあったようです。
ソ連では17世紀のシベリア流刑当時から囚人労や軍事捕虜が安価な労働力として使用され、それがロシアの国土開発のために欠くことのできないものだったようです。
ロシアには行ったことがありませんが、極寒かつ広大なシベリアの大地を開発するために、ロシアにとってはやむを得ない事情だったのかもしれません。
日本人だけでなく、ドイツ人(239万人)・日本(60万人)、その他ハンガリー人・ルーマニア人・オーストリア人・チェコスロバキア人・ポーランド人・イタリア人・フィンランド人・フランス人・中国人・韓国人・オランダ人などあらゆる国の軍事捕虜が、ソ連の収容所で強制労働に服していたそうです。
ドイツ人女性捕虜は25,000人~3万人にも及んだとのことです。
しかし女性たちが捕らえられたのは、おそらく現地のい総指揮官が人員を増やすためにできるだけ多くの人をとらえて収容所に送ろうとした家庭で女性も交じってしまったのではないかとみられています。

女性たちはソ連軍に占領されたときから常に性暴力の危険にさらされていました。
夜になるとソ連軍が女性を求めてやってくる、混乱の極みの外地で、寝てる女性を奪い去ろうとするソ連軍兵士。奪い去られないようにと、団結して抗う女性たちの攻防は連日続きました。
捕虜として移送される中で、ソ連軍兵士により暴力的に連れ去られた一人の女性はとうとう帰ってきませんでした。 その女性がシベリアで、親兄弟にはとても見せられないような姿で殺されていたという事実を元日本軍兵士が遺族に伝えたのは、戦後何十年も経ってその兵士が亡くなる間際になってからのことでした。

性暴力の不安と戦いながら過ごした抑留生活が終わりようやく帰国すると、引き揚げ港の一つ舞鶴では厚生省の外郭の「引揚げ援護員」が設置され、下船と同時にDDTの消毒が行われ、入浴・脱衣の消毒・種痘接種などの検疫が入念に行われました。
その中で女性だけ特別に医務室に通され、妊娠のチェックがされていました。強姦による望まない妊娠をしていた女性に非合法で堕胎を行っていたのです。

そして帰国後も「シベリア帰り」ということが他人に知れると、おそらく性暴力被害も含めて「どんな目にあったかわからない人」というように見られてしまうので、抑留された事実を伏せ、あたかもそれがなかったことかのように生きていきました。
そしてシベリアに女性も抑留されていたという事実が、闇の中に消えていきました。

終戦後、旧陸海軍軍人には恩給が支給されましたが、軍属はその対象外とされました。
陸軍病院で同じように軍務に従事していた衛生兵と看護婦の間で歴然とした差別がありました。
戦後20年以上経ってから、元看護婦の中で高齢になり生活に困窮する事例が報告されるようになって、元従軍看護婦の有志が立ち上がり、恩給の支給を求めて運動を始めました。
1978年、ようやく恩給法が改正され、特定の条件を満たせば慰労給付金が支給されるようになりました。しかし対象者は派遣された全看護師の5%にも満たなかったそうです。
シベリアに抑留された看護婦たちは、派遣期間が規定の12年に達していないという理由で、補償の対象外とされています。

1981年から、中国残留孤児の肉親捜しが始まりました。1986年には、肉親が見つからなかった方でも残留孤児と判明すれば、日本に帰国できるようになりました。
が、戦後の混乱の中で中国に取り残されたのは子どもだけではありませんでした。
実は従軍看護師たちの中にも、又民間人の中にも中国に取り残された女性がたくさんいました。しかし「残留孤児」の定義を終戦当時12歳以下としたので、それ以上の年齢だった方々の帰国が認められず、敗戦当時13歳以上だった女性がようやく日本に帰れるようになったのは、戦後50年近く経った1994年からのことでした。

満州に抑留された女性の中で、1955年に解放されても日本に帰らず、そのまま現地でロシア人と結婚して最期までその地で過ごした方もいました。
民間人(芸者)として、家族を支えるために満州にわたり、終戦後に政治犯として捕らえられた女性です。
彼女はシベリアの中でも最果ての流刑地に送られ、そこは「一度送られたら生きて帰ることはできない陸の孤島、囚人の墓場」としておそれられる場所でした。
日本人の全抑留者の中でも、そこに送られたのは1%にも満たない人々。その中に、民間人の女性が送られたというのです。彼女は政治犯として、終戦後に捕らえられた方でした。
1990年代に偶然のことから初めて、彼女の存在が明らかになりました。
記者たちが彼女を訪ねましたが、彼女は帰国を望みませんでした。
「私が雪の中で、寒さと飢えで死にそうになったとき、何度も日本に助けを求めて手紙を書いた。でも、何も返事がなかった。誰も同情してくれず、皆に見捨てられた。ロシア人は私を助けてくれた。私は長い間、この優しい人々の中で生きてきた!」。

とても切ない、そして胸に迫る言葉です。
女性が戦争に巻き込まれるということはこういうことだと、突き付けられるような一冊です。