シンガポールでの加害の歴史

2023年02月18日

今日の日本共産党吉川市議員団学習会、「今週の知ってるつもり」は衝撃でした。
旧日本軍がシンガポールで何をしたのかを、初めて知りました。石油・鉄・すず・ゴムなどの資源を確保し、中国戦線を打開しようとした日本は、1941年12月8日、つまり真珠湾攻撃のその日に、南部仏印マレー半島北部のコタバル付近に上陸し、アジア太平洋戦争に突入したとのことです。
この日の開戦はアメリカだけを相手に攻撃を仕掛けたのではなく、文字通り世界を相手に戦争を始めたのだということでした。

旧日本軍は東南アジアの軍事・経済の中心都市シンガポールを目指し、イギリス軍と交戦しながら南下し、わずか55日でマレー半島南端ジョホールバルに到着。シンガポールに撤退したイギリス軍との戦闘の中で、日本軍は各地で住民や民間人を虐殺し、病院を攻撃して200~300人ほどの医療スタッフや入院患者まで殺害してしまいました。
そうして42年2月15日イギリス軍が降伏、日本軍はシンガポールを占領したのでした。

中国系住民(華僑)の虐殺

そして占領から3日後マレーの虎と呼ばれた司令官、山下奉文中将はこの地に住んでいた中国系住民(華僑)の掃討作戦命令を下します。掃討対象は元義勇軍兵士・共産主義者・日本軍の作戦を妨害する者・治安と秩序を乱している者又は乱す恐れのある者、いわゆる「抗日分子」でした。
山下中将は18歳~50歳までの華僑の男性(地域によっては老若男女)を指定の場所に集めて、わずか3日間で抗日分子かどうかを見極める=検証するよう命じたのでした。

当時中国系住民は20万人とも50万人とも言われ、その中から掃討対象者を見つけることは不可能でした。
したがって人相や服装などの見かけ、蒋介石を知っているかという質問への対応、更には「前から5番目に座っている者」などで選別するという、ひどいやり方でした。ある元憲兵隊院は「シンガポールの中国系住民を半分にする、つまり半分粛清しろという命令が頭にあって、どうせ半分は殺すのだとすると、どんどんより分けなければならないので、だいぶいい加減な選別を行った」と証言しているそうです。
この検証で反日的と選別された住民はトラックに乗せられ、海岸や沼地・谷などに連れて行かれ、多くは機関銃で射殺されました。その後も中国系住民が住む村を日本軍が回って、、村人を集めて細長い溝を掘らせ、翌日早朝に数家族を叩き起こして溝に集めて銃殺、あるいは防空壕に隠れていた女性や子供を十件で突き刺して殺すなどの粛清が続きました。

直後の3月に現地に入った大谷敬次郎憲兵中佐はその様子を見て、「日本軍が行った華僑粛清は暴虐非道の言語に絶するものであった」と、後に述べているそうです。虐殺された中国系住民は日本の資料で約5,000人、シンガポールでは4万~5万とされているそうです。

「許そう、しかし忘れまい」

シンガポールは日本占領期間は「昭南島」と呼ばれていました。昭南神社が建てられ、昭南新聞が発行されました。
靖国派の人々は先の大戦を「植民地解放のための戦争だった」と主張しています。それならなぜ島の名前を変える必要があったのでしょう。そもそもシンガポールの人々は日本に、イギリスを追い出してくれと頼んだでしょうか。日本は日本の戦争目的遂行のために占領し、居座ったのです。

https://www.visitsingapore.com/ja_jp/see-do-singapore/history/history-museums/former-ford-factory/
https://www.visitsingapore.com/ja_jp/see-do-singapore/history/history-museums/former-ford-factory/

シンガポールには抗日戦争を残すための戦争記念館が20か所、戦争の歴史をたどるための案内板は100か所もあるそうです。
戦争博物館のひとつ、降伏調印の舞台となった「旧フォード工場記念館」のリニューアル開館でリー・シェンロン首相は、「1942年2月15日、75年前の今日、ここでイギリス軍は日本侵略軍にシンガポールを引き渡しました。それからシンガポールは昭南と名前が変わり、恐怖と苦難の3年半が訪れたのです。シンガポールの歴史で最も暗黒の時代を忘れないように、この日を総国防の日としています。この博物館は日本統治での恐怖と凶暴さ、我々の祖先の句と勇気を記録しています。シンガポールが自由だけでなく名前も失うとは何を意味するのかを、記録は物語っています。こんなことを二度と起こさないようにせねばなりません」と語りました。

「戦後78年」は「あの戦争から81年」の年

シンガポールでは1979年から日本の企業経営や技術習得などを取り入れる、「日本に学べ」運動が推進されました。この時これで過去の戦争の話は終わりになったのか、水に流してくれたのかと思った日本人もいたかもしれません。
しかしシンガポールの人々にとって、高度成長を遂げた日本に学ぶことと日本との戦争の歴史に対する認識や対応とは全く別な問題です。

リー・クアンユー初代首相は、「許そう、しかし忘れまい」と述べたそうです。
時代が進もうとシンガポールの人々にとって、日本が支配した3年半は決して忘れてはならない事実です。今年2023年は戦後78年の年ですが、シンガポールではに旧日本軍が占領した1942年から数えて、「あの戦争から81年」という言い方をするそうです。
日本の占領統治はイギリス100年の植民地時代より過酷で、恐怖と絶望のどん底だったとシンガポールの人々は言います。それだけのことを旧日本軍はしてしまったのだと思います。
「もしも日本政府が過去の戦争責任に対して謝る機会があったら、今からでも謝った方がいいと思いますか」との問いに、シンガポールの40代の女性はこう答えました。
「機会はこれまでにも、今でも、いつでもあるでしょう。機会があったらではなく、その行為をする気になれば、機会はいつでもあるのです」。
しかし日本政府は謝っていません。「過去のことで、(お金で)解決済み」という態度です。
過去の過ちを正しく認識し、同じ過ちを繰り返さないと決意しない限り、また同じ過ちが繰り返される・・・。これは多くの歴史研究者たちが指摘する事実だと思います。実は30代前半に一度シンガポールに行ったことがあり、「旧フォード工場記念館」にも行きました。でも恥ずかしいことに全く記憶になく、当時の自分のアホちんさに驚いています💦