明治の文学者は戦争をどう描いたのか

2021年12月06日

12月4日土曜日は日本の近現代史を学ぶ会のみなさんが学習会を開催され、私も参加させていただきました。
というか、近現代史を学ぶ会は私も一応参加しているのですが、この2年半ほどすっかりとご無沙汰してしまっていました。
今回は「明治の文学者と戦争」とのテーマで、文芸評論家の澤田章子さんをお招きしての学習会ということで、久しぶりにちゃっかりと参加させていただきました💦
それにしても楽しくワクワクして、そして学ぶことの多い学習会でした。

澤田さんは日本民主主義文学界の方で、文芸評論家であり樋口一葉の研究者でもあります。
澤田さんはお話の冒頭で、歴史と文学とは密接な関りがあり、両方を一緒に考えていくことが大切だと話されました。
日本で近代文学が始まったのは明治18年頃からのことで、それ以前の社会では士農工商という身分制度の中で社会を考えていて、人間個人個人のことを深く考えることがなかった。明治時代になって初めて、身分という考え方ではなく個人を大切にするようになり、人間の心を扱う文学がスタートした、というようなお話でした。

澤田さんは北村透谷・国木田独歩・、森鴎外・樋口一葉・泉鏡花・与謝野晶子・夏目漱石の話をされました。
どのお話も興味深かったのですが、特に心に残ったのは森鴎外と与謝野晶子でした。

与謝野晶子が詠った「君死にたまふこと勿れ」は、あまりにも有名です。
が、正直私は「ロシア戦線・旅順に派兵されている」弟を案じて詠ったものとは知りませんでした💦
あ、それは多分ロシア戦争で旅順戦線がとても大変な戦争だったということを認識したのが最近だったので、歴史的な知識と文学とが私の中では全然結びついていなかったのだと思います。
だからこその、この学習会だと思いました💦

「あゝをとうとよ 君を泣く 君死にたまふことなかれ 末に生まれし君なれば 親のなさけはまさりしも 
親は刃をにぎらせて 人を殺せと教えしや 人を殺して死ねよとて 二十四までを育てしや
堺の街のあきびとの 旧家をほこるあるじにて 親の名を継ぐ君なれば 君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事か 君知るべきやあきびとの 家のおきてに無かりけり
君死にたまふことなかれ すめらみことは戦ひに おほみづからは出てまさね 
かたみに人の血を流し 獣の道に死ねよとは もとよりいかで思されむ
あゝをとうとよ戦ひに 君死にたまふことなかれ 過ぎにし秋を父ぎみに おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく わが子を召されて家を守り 安しと聞ける大御代も 母のしら髪はまさりけり
暖簾のかげに伏して泣く あえかにわかき新妻を 君わするるや思へるや 十月も添わでわかれたる 少女心を思いみよ
あゝまた誰をたのむべき 君死にたまふことなかれ」

本当に、なんてスゴイ歌でしょう。
たったこれだけの言葉の中で家族背景がはっきりと見え、また戦争を許さない気持ちがはっきりと見えます。
「人を殺せと教えしや、人を殺して死ねとて二十四までをそだてしや」「旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事か」「すめらみことは戦ひに おほみづからは出てまさね」。
ここまではっきりと歌い上げた、しかも戦争が賛美され、戦争反対とはとても言えない時代の突入した中でこの歌を発表する強さ、凄いとしか言えません。

でも与謝野晶子がもっとすごいのは、大町桂月との論争です。
大町桂月は明治37年10月の「太陽」に、この歌の批評を掲載しました。
ひどいと思うのは、「草莽の一女子、『義勇公に奉すべし』とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議す」と、与謝野晶子を「そこいら辺の女子どもが」とバカにした言い方で「女子どもが教育勅語や宣戦詔勅を否定するのか」と言っているところです。
それに対する与謝野晶子はカッコいいです。同じく明治37年10月の『明星」での反論です。
「歌は歌に候。歌よみならひ候からには、私どうぞ後の人に笑われぬ、まことの心を歌いおきたく候。まことの心うたわぬ歌に、何のねうちか候べき。まことの歌や文や作らぬ人に、何の見どころか候べき。長き長き年月の後まで動かぬかはらぬまことのなさけ、まことの道理に私あこがれ候心もち居るかと思ひ候。この心を歌にて述べ候ことは、桂月様お許しくだされたく候」。
時代的にはこの先、大正デモクラシーの時代を経ながら軍国主義への道を加速させていくわけですが、文学者としての二人の論戦では与謝野晶子の方が「上」だなぁと感じます。


森鴎外のお話も、とっても興味深いものでした。
軍医であり明治の文豪でもあった森鴎外の小説は、実は一度も読んだことがありません。読んでみようと思ったこともありませんでした。
でも今回のお話で、ゆっくり読んでみたいと思いました。

森鴎外は軍医になりたくてなったのではなく、望んでいたことは海外に行くことだったそうです。
東大の医学部を卒業し、上位2位までで卒業すれば国費で留学ができたそうですが、鴎外は8位での卒業だったので留学できませんでした。
そこで、軍医として海外に行くことを選んだのだそうです。
権力者としての側面と、文学者としてのナイーブな側面とを併せ持ち、矛盾を抱え、自分の人生を決して満足して終えた人ではないだろうとのお話でもありました。

日清戦争に従軍した時の『徂征日記』には、旅順口の「岸辺屍首累々たり」と、ただの死体ではなく異様な屍が一つ二つではなく累々と・・・と表現していたり。
「むかしうゑし其人あはれ今年さくこのはなあはれあはれ世の中」との短歌を残していたり。
小倉に左遷されていた時代には、戦地における「強姦」を批判し、警告していました。
そして「うた日記」には「罌粟、人糞」という凄い歌を残しています。

騎兵隊の兵士に強姦された若い女性は、「恥をかいて生きるよりも死を選ぼう」と毒のある罌粟の花を食べてしまいます。
それに気づいた母親は罌粟の花を吐かせようとして、人糞を娘に食べさせるのです。
壮絶な詩だと思います。

もう一つ面白そうな小説が紹介されました。
『鼠坂』という小説です。
戦争に伴う不正や悪事、退廃、殊に戦地での強姦に対する怒りをミステリー仕立てにして描いたものだそうです。
議会が終わったら、ゆっくり読んでみたいと思います。