自分という〝たったひとりの少数派″〝例外の人生″を生きる

2020年04月14日

昨夜というか、今日の朝方読んだのは『ザ・レイプ』(落合恵子著 講談社)です。
1985年に出版された本で、私は出版後間もないころに一度読みました。
#Me too 運動が広がり、性暴力被害者たちが声をあげ、刑法を変えていかなくてはとの声が大きく上がり、女性の性だけでなく性的マイノリティも含めあらゆる人々の性の尊重が重要視される中で、落合恵子さんは30年以上前にこの小説で何を訴えたのか・・・。
どうしてももう一度読みたくなり、読み直しました。

レイプ被害に遭った若い女性が、自分自身の尊厳のために、泣き寝入りせず告訴する道を選びました。
しかし逮捕された犯人は「和姦」だと主張し、裁判では犯人の性的傾向ではなく、被害女性のこれまでの男性との交際経験や性的な関係、ものの考え方に焦点が当てられます。
まるで「レイプされても仕方ない」とでも言わんばかりに、人間性が丸裸にされるかのように、人格が踏みにじられ、正しく「セカンドレイプ」そのものの裁判が展開されていきます。
その中で、愛していた男性も去って行ってしまいました。

しかし、そんな裁判で女性検事は訴えます。
「彼らは、強姦の被害者を解剖し、スキがあった、服が挑発的だ、処女か非処女か中絶経験の有無等々事件とは全く関りのないところで申し立てます。いったい強姦の被害者に共通するタイプというものがあるでしょうか。もし、あるとするなら、それは、たった一つ、すなわち〝女″であることだけです」。
「強姦は暴力的なペニスによるファシズム以外の何ものでもありません」。
「強姦を犯罪として立証しにくい社会は、そのまま、人間の片方の性である女性の人格そのものを軽くみている社会と言えます。同時に、それは、女性のパートナーである男性の人格、つまり人間そのものを軽視し、切り捨てる社会ではないでしょうか。私たちは今、私たちが構成するこの社会の、そして他でもない私たちひとりひとりの、人間としての文化度を問われる裁判に臨んでいるのです」。

落合恵子さん、すごいです。
今、この時代にみんなが考えようとしている課題を、30年以上前に小説という形で問題提起しているのですから。

宮俶子さんは解説で、こう書いています。
社会のいわば少数派として生きる女たちを積極的に描く落合文学の要には、「少数派が切り棄てられる社会で、どうして個人(あなたや私)が、生き生きと生きられるだろう。なぜなら、人は見な、それぞれの自分という〝たったひとりの少数派〟、〝例外の人生〟を生きているのだから(エッセイ「優しい対話」)という、個の思想に裏打ちされた多様性の論理が脈打っている。だから、彼女は、人間(女でも男でも)を一色に染めあげ画一化しようとする権威や権力(=強者の論理)には、ひといちばい敏感である、と。

だから落合恵子さんの話はいつ聞いても、強く、多くの人を惹きつけるんだなぁと改めて思います。
私も、自分自身のものの考え方について、こういう本を読みながら形成してきたのだと改めて思いました。
「自分というたったひとりの少数派」「例外の人生」、私もちゃんと歩きたいなぁといます。