『国葬の成立 明治国家と「功臣」の死』

2022年08月23日

『国葬の成立 明治国家と「功臣」の死』(宮間純一著 勉誠出版)を読みました。
この本が凄いのは、今、安部元首相の国葬が問題視される中でにわかに出版されたのではなく、2015年に出版された本だということです。
そして一体どんな人がこの本を書いたのだろうと思って著者の略歴を見ると、なんと1982年生まれ今年40歳という、とても若い方が書いたのだということ。
それから「あとがき」を読むと、この本を書いた元々の動機は大学院在学中の所属ゼミの研究テーマが「大久保利通」だったことからスタートしたということ。
なのでこの本は純粋に学術研究をまとめ上げた一冊であって、安倍国葬への様々な見解とは無縁の本だということ。
この点にまず、とても感動しています。

お値段が高めの本なので、もしかしたら難しくて読めないかもと不安に思いながら手にしたのですが、意外と普通に読めました。
原文がたくさん挿入されていたり、資料満載です。

江戸時代、将軍・天皇の葬儀は「市民と隔絶された空間」で営まれていましたが、明治に入ると死を視覚化し、見せる葬儀へと変わっていきました。

1878(明治11)年に暗殺された大久保利通の葬儀は2,000人、あるいはそれ以上の参列者があったと考えられ、160名の警部から警部試補と1,396名の巡査が厳重な警備にあたっていたとのことです。
大久保利通の葬儀は個人の供養というだけでなく、パレードとしての意味を強く持って行われました。
事件を機に大臣や参議への警護を強化し、事件に関する報道を規制し、一方でこうした大々的な葬儀を行うことで「反政府分子への牽制とし、大久保の死によって政府が何ら揺らいでいないことを広く示した」のだということです。
勝田孫弥『大久保利通伝』は、「当時、未だ国葬の制なかりしと雖も(中略)後の国葬の端を開きたるものなり」と大久保の葬儀を評価しているそうで、国葬=天皇と民衆が一人の「功臣」の不幸を嘆く空間、という根本的な図式は大久保の葬儀が原型になったとのことです。
しかし大久保の葬儀はあくまでも形式上は「大久保家」の主催で行われたものであり、「国葬」ではありませんでした。

日本で最初の「国葬」とみなされるのは1883(明治16)年の岩倉具視の葬儀でした。
何故岩倉の葬儀が「国葬」とみなされるかというと、
まず第一に、太政官から葬儀の内容が広く一般に公開されたこと。
第二に、葬儀の執行組織や費用の支出が明確に太政官あるいは太政大臣の名で命令されていること。
第三に、天皇の三日間の執務停止(「廃朝」と言うそうです)と死刑執行停止が布達されたこと。
第四に、政府が各国に対して「国葬」と明示したこと。
とのことです。
岩倉具視の葬儀は大久保の葬儀よりも更に大規模なパレードが行われ、メディアを通して更に広範な人々と共有されたとのこと。
各種新聞は岩倉具視の生前の業績やエピソードを紹介し、その論調はいずれも「功臣」である板倉の死を嘆き、天皇の悲しみも報じたとのことです。

そして国葬は1891年の三條実美の葬儀をもって完成します。
三條実美の葬儀が岩倉具視の葬儀と大きく異なるのは、国葬の発令が勅令=天皇の意に基づく命令という形式で行われたという点とのことです。
「官報」などの政府が発行する媒体に「国葬」という文字が登場し、全国各地から「弔詞」が三條家に寄せられ、また全国各地で遙祭が催され・・・。
東京で行われた国葬に終わらず、メディアを介して各地に波及し、三條や政治・行政とは心理的にも物理的にも距離がある人々に「功臣」の死を実感させたと、三條の国葬を評価しています。

こうした様子は、つい先日安倍元首相が亡くなったときのメディアの報道を見れば簡単に想像することができます。
今は統一教会との深い関連の方が注目され、問題視されているとは思いますが、亡くなった当初は安倍元首相の「功績(@ ̄□ ̄@;)!!」が強調されていたように感じました。
当時とは比べ物にならないほどメディアが発達した今、安部元首相の国葬を実施して、暗い事実を覆い隠して何か素晴らしい功績のある人であるかのように報道したとしたら、一体どんな状況が巻き起こるのでしょう。
死者を神格化し、メディア支配で国民にそれを強く印象付け、そして政府の思う方向に政治を進めていく、その道具が「国葬」だということだと思います。
そして政府が進めたい政治の方向はと言えば軍事費の2倍化、憲法改正と、非常に怖い方向です。
やっぱり安倍国葬、絶対反対です。