『13歳、「私」をなくしたわたし 性暴力と生きることのリアル』

2020年04月12日

『13歳、「私』をなくした私 性暴力を生きることのリアル』(山本潤 朝日新聞出版社)を読み終えました。


著者の山本潤さんは13歳から20歳まで、父親から性暴力を受け続けたサバイバーです。
その体験と20数年をかけて、サバイバーとしての自分の人生を歩めるようになるまでの過程がとても生々しく綴られています。

山本さんは、こう書いています。

「性暴力の中核をなすものは無力化だと考えている。
被害を受けたということは、圧倒的な加害者の力により、自分の意志や感情など全く関係なく思いどおりに扱われてしまったということだ。
まるで自分など存在しないかのように。」

「空から降ってきた爆弾によって大地が粉々にされたような経験。
爆弾を落とした飛行機がはるか彼方に飛び去っても引き裂かれた大地の傷が癒えないように、加害者の影響はそこにとどまる。
まるで『指輪物語』のサウロンの目のように、天井から闇を切り裂いて自分を監視する加害者の視線を常に感じ続ける。
屈服させられた経験は、それほど大きい。」

・・・なるほどなぁと思いました。
ものすごい説得力だと感じます。

山本さんは、誰かに殺されてしまいたい気持ちや、強迫・依存・トラウマ・フラッシュバック・・・様々な症状に悩まされながら、サバイバーとしての長い道のりを生きてきました。
その中で性暴力が家庭の中で起きていた時、被害者である子どもが救われなければならないのは勿論ですが、山本さんは母親にも支援が必要だということに気づいていきます。
「子どもが被害に遭った時、母親も二次被害者であり、間接被害者なのです。」

「母親には多大な負担が押し寄せるにもかかわらず、そのことへの理解はあまりに不十分です。支援現場でも母親はいて当たり前で、にもかかわらず、透明人間であるかのように無視されることもしばしばあります。母親は自己犠牲するのが当然だとみなされ、傷つきを抱えた、1人の人間として扱われることはめったにありません。けれども自己犠牲で問題が良くなることは、実際にはほとんどありません」との、キャロライン・M・バイヤリー著『子どもが性被害を受けたとき』の文章が引用・紹介されています。

山本さんのお母さんも、「娘を守れなかった」という自責の念と「そんな男を愛してしまった」という恥の気持ち、そして等の娘からは「お母さんはそんな目に遭ってないから、わからない!」との言葉を浴びせられ・・・。
相談した姉には、「あんた、何してたの!」と・・・。
誰にも救われないし、どこにも相談できない。
そんな状況に追い詰められていたことが、お母さん自身の言葉として記されています。

もう一つ興味を惹いたのは、お父さんもまた被害者だったという事実です。
「虐待の連鎖」という言葉があります。
虐待をする親は、自身も虐待の被害者だったということが少なくありません。
身体的虐待や心理的虐待についていはその通りだと思っていました。
しかし性的虐待については、愛すべき我が子にそんなことをする心理は想像することもできませんでした。
でも、山本さんのお父さんは実は母親が幼少期に亡くなっていて、継母や義弟・義妹から意地悪をされたり、馬鹿にされたりしていた・・・。
「加害者が求めているものは性的欲求の充足ではなく、むしろ優越や支配の感覚、接触の欲求、あるいは尊敬や愛情を得たいという欲求であることさえあるという。」
「性暴力は『関係性の病』でもあったのだ」。

・・・こういう視点は、私は今まで全く持っていませんでした。
とても深く納得させられました。


苦しみながらも看護師・保健師の資格を取り、看護師として働き始めた山本さん。
子どもや女性への暴力防止などの研修に参加し、大学院で法医看護学を学ぶ中で、自分に起きたことが何だったのかを科学的にも精神的にも整理することができるようになっていきました。
今は性暴力被害者支援看護師として働き、またその育成もしています。
性暴力被害についての講演もしていて、2017年の110年ぶりの民法改正では法務省のヒアリングにも参加して発言をしています。

本の副題の通り、性暴力を生きるということがリアルに伝わってきます。
山本さんは父親から性暴力を受けていた当時、図書館にこもって本を読んでいたと、本の中のどこかに記されていました。
本当にたくさんの本を読んでいる方のようで、この本の中にも読んでみたいと思うたくさんの本が紹介されています。

この本を読むと、山本さんの人生が壮絶だったことがよくわかります。
でも一方で、そんな壮絶な人生の中でも真っすぐに被害者支援の道を生きています。
そんな人生を支えているのは読書・知識、そしてそれを支える誠実な仲間との出会いのように感じました。