「権利」と「際限なく求めること」とは違うのに
昨日、吉川市の3月議会が終わりました。
最終日はいつもモヤモヤとした気持ちが残り、「終わった」という解放感や安堵とは無縁な私です。
今回、私は運転手不足の問題を取り上げて、「公共交通の充実を図り、利用者の移動の権利を保障するための意見書」を提出しました。
バスやタクシーの運転手不足の問題は、吉川市でも深刻な事態だと思います。
吉川美南駅のロータリーにはバス乗り場が3カ所設置されているのに、実際に使用しているのは2カ所だけ。
しかもその一つはきよみ野行きですが、一日わずか2便。
もう一カ所は三郷団地方面行きで、なんと一日1便のみ。
越谷市立病院に通う吉川市民の脚を支えていたバスも数年前に廃止され、美南駅と新三郷駅を結ぶバスも廃止されました。
私もバス便の問題は何度か一般質問などで取り上げていますが、こうした問題を解決するためには運転手確保がカギなのだと学んできたところです。
バスにはいつも「運転手募集」と掲げられ、吉川市の来年度予算にはバスとタクシー運転手の資格取得を応援するための予算が計上されました。
それくらい運転手不足は深刻な状況なのだと思います。
そして、この4月から吉川市役所と今開発を進めている吉川美南駅東口とを結ぶバスが新たに運行を開始しますが、平日一日4便のみの運行予定です。
市の説明では、利用者と運転手(確保)の動向を見ながら増便を検討していくとのことでした。
やはり運転手を確保しないことには、地域公共交通の充実はとても難しいのだと思います。
- 国として運転手確保にあらゆる背策を講じること。バスやタクシー運転手の賃金引き上げが実施されるよう指導援助すること。
- 地域公共交通維持確保改善事業をはじめ国の負担を大幅に拡充すること。
- 交通政策基本法は、国及び自治体の責務として財政の確立や労働環境の改善を明記し、移動の権利を保障するよう改正すること。
この3点でした。
私の提案に対して未来会議の議員からはこんな質問が出されました。
「移動の権利」についての質問です。
「移動する権利は誰にでもある。居住権も誰にでもある。居住権や移動の権利をどこまでと考える時に、他者からの支援を前提とした居住地選択の権利まで保障するべきなのか。移動のために他者からの支援を際限なく求める権利があるのか。移動の権利を誰がどこまで保障するべきなのか。どこに居住していても無条件に充足されるべきものなのか。どこまでを移動の権利として考えているのか」という質問です。
正直、衝撃です。
何故なら、「権利保障を求める」ことと「際限なく求めること」とは全然違うからです。
「際限なく求める」というのはどちらかと言うとわがままな響きがあります。
が、「権利保障を求める」ことは憲法の理念に基づいた崇高なものだと思うのです。
日本国憲法は第10条から40条まで、30条もに亘って「権利」を規定しています。
12条・13条・25条にはこんな規定があるのです。
国民は自由と権利を乱用してはならず、常に公共の福祉のために利用する責任が課されています。
そして公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政で最大限に尊重されなければなりません。
そして国は社会福祉・社会保障・公衆衛生の向上と増進に努めなければならない。
憲法のこの規定を知っていれば、「どこまで」とか「他者の支援を前提に」とか「際限なく求める」とかこんな言葉は出てこないはずだと思うんですよね。
だって国政は、この憲法に則って行われているのだから。
みんながみんな、車を運転できるわけではありません。
障害があったり、車の運転に恐怖を抱く人だっているでしょうし、経済的に車を買う余裕のない人だっているでしょう。特に高齢者には運転免許証の返納する人だってたくさんいます。
そういう人も「健康で文化的な最低限度の生活」を送ることが保障されていて、ちょっと遠くの大きな病院に受診したり、買い物に出かけたり、時には映画を見たり、旧友と食事に出かけたり、そういう当たり前の暮らしをしていると思います。
バスや電車などの公共交通を利用して出かける当たり前の暮らしを、「他者の支援を前提に」したものだと切り捨てて良いのでしょうか。
それなら公共交通とは一体何なのでしょうか。
モヤモヤした気持ちが消せない議論でした。
そして意見書は10対9で否決😢😢😢
本当に残念です。