「第五福竜丸、みんなの船~ビキニ水爆実験70年、世界のヒバクシャとともに核兵器なき地球を~」
9月29日(土)は2024第69回日本母親大会が開催され、私は吉川市母親連絡会のみなさんと一緒にZoom参加しました。参加してすご~~~く良かったです。記念講演「第五福竜丸、みんなの船~ビキニ水爆実験70年、世界のヒバクシャとともに核兵器なき地球を~」、東京都立第五福竜丸展示館学芸員 安田和也さんのお話し。
本当に素晴らしかったです。
今、核兵器は?
今世界の核兵器数は12,120発。1980年代は世界に7万発もあり、地球を60回破壊することができると言われていました。
今、核兵器の数そのものは減りました。現役で配備されているのは9,500発です。
数は減ったかに見えますが、使いやすい核兵器が増えています。
世界の核実験
1962年、キューバ危機の時には年間178回もの核実験が行われました。二日に一回は実験が行われていたという状況の中で核兵器禁止を求める声が高まり、1963年には部分的核実験禁止条約が署名され、核実験は地下で行われるようになりました。
また1996年には宇宙空間・大気圏内・水中・地下を含むあらゆる空間での核兵器の核実験による爆発・その他の核爆発を禁止する条約「包括的核実験禁止条約』が採択されましたが、未だに発行されていません。
核実験は地下で行われるようになり、1945年以降これまでに繰り返された世界の核実験回数はなんと2379回に上ります。
第五福竜丸
第五福竜丸は和歌山県の串本町古座で作られた木造船で、140トンの大きな船でした。
当時の日本は食糧難に喘いでいて、漁業はとても大切でした。GHQは日本に鉄の船はつくらせませんでしたが、木造船は自由に作ることができました。
また敗戦後は遠洋漁業は禁止されていましたが1952年のサンフランシスコ条約後解禁され、第五福竜丸はマーシャル諸島(ビキニ岩礁)にも出かけて行けるようになりました。
被爆の実相
第五福竜丸ははえ縄漁業をする船でした。1回のはえ縄漁業にかかる時間は14時間とのことです。大変な重労働なので乗組員の平均年齢は25歳と、とても若かったそうです。
マーシャル諸島のビキニ岩礁に着いたのは1954年の3月1日でした。その日の朝方、突然大きな光が放ち、爆発⇒爆風、そして雨に交じって白い粉が降りました。
しかし乗組員は夢中でマグロを揚げていました。
そして焼津に向かって出港し、夕方頃から乗組員たちは身体がだるくなり、食欲がなくなりました。
無線長だった久保山愛吉さんはこの異常な事態を無線で本国に連絡することはしませんでした。なぜなら、アメリカにキャッチされたら何が起きるかわからないと思ったからでした。
焼津港に着き医師の診察を受けると医師は原爆病を疑い、症状の重い二人を東大病院に送りました。
被爆を疑っていたのに、収穫してきたマグロは出荷してしまいました。
毛根・顎などの火傷症状がひどく、免疫力は低下し、造血機能障害が起きていました。輸血をすると副反応で肝炎を起こしました。
乗組員の中で一番年長だった久保山愛吉さんは8月に危篤状態に陥り、「原爆の被害者は私で最後にしてほしい」と訴えながら9月23日に亡くなりました。
アメリカの核実験の影響で992隻の漁船、約2万人の漁師が死の灰を被ったと推定されています。
全国18カ所の市場で線量が測定され、汚染マグロが捨てられるようになりました。中には捕ってきたマグロの全てを捨てざるを得ないというような状況も生まれました。
核実験の実相
マーシャル諸島での核実験でアメリカが目指したのは、実際に使用することのできる水爆の開発でした。
水爆実験が6回行われ、広島に落とされた原爆の1000倍の威力を持つ水爆がつくられました。
そして、この水爆にアメリカが付けた名称は「ブラボー」(@ ̄□ ̄@;)!!
アメリカはこの実験の他にも、海中30メートルのところに爆弾を沈めて爆発させる実験も行っています。
そのときすぐ近くに船を置き、デッキには動物(確か牛?)を並べて繋ぎ、動物たちの被爆の影響を調査。
またネバダ州での実験では実験場のすぐ近くに兵士を待機させ、爆発後の放射線が降り注ぐ中で兵士が指示通りに動くことができるかを実験したそうです。
その他イギリス・フランス・旧ソ連/ロシア・中国の核実験も紹介されました。
旧ソ連が1950~60年代に開発した水爆は第二次世界大戦中に全世界で使われた総爆薬量の50倍の威力を持ち、名付けた名称は「ツァーリ・ボンバ」で「爆弾の皇帝」または「爆弾の帝王」という意味だそうです(@ ̄□ ̄@;)!!「核実験は単に核を爆発させるという単純なものではない、その国の最高レベルの政治である」との言葉が心に残りました。
旧ソ連は草原で実験をしたそうですが、被爆した草をトナカイが食べ、トナカイに被害が及んでいるそうです。
またアザラシにがんが増えているそうです。
被爆米兵と埼玉協同病院
元米兵のジョン・スミダーマンさんはビキニ核実験で被爆しました。1982年原水爆禁止世界大会に来訪した時は両脚切断、左上肢はリンパ浮腫でパンパンにはれ上がっている状態でした。
自身の体調不良をビキニ岩礁での核実験の影響ではないかとジョン・スミダーマンさんは考えていました。しかし米軍はそれを認めず、納得のいく治療を受けることができませんでした。
原水禁世界大会に参加するために来日したジョンさんは、ヒロシマ・ナガサキで被爆者の治療にあたった日本の医師の診察を受けたいと望みました。
その結果自身もヒバクシャであり、ヒバクシャのために力を尽くした医師、肥田俊太郎先生の病院に入院することができ、被爆について丁寧なレクチャーを受けることができたそうです。
実はその病院は埼玉協同病院であり、私のパートナーが大学卒業以来ずっと働いている医療機関です。パートナー君も肥田俊太郎先生から引き継いで被爆相談外来を今、担当しています。
埼玉協同病院がこんなに大切な役割を果たしてきた医療機関だということを初めて知り、なんだか深く感動してしまいました。
ジョンさんの話をするときの安田さんは声を詰まらせ、涙ながらのお話でした。
恐らくこの話はこれまでに何度も繰り返し話してきたでしょうに、それでも涙が出る、感情が高ぶる・・・。
安田さんのヒバクシャへの篤い思いが伝わってきました。
自然界の放射線と人為的放射線
実験により生み出された放射線は成層圏まで上がると緩やかに降りてきて地球全体に降り注ぎます。自然界にも放射線は存在していて、通常私たちが浴びる線量は2~5ミリマイクロシーベルトです。
日本政府は筑波で人為的に生み出される放射線の線量を経年的に測定しています。チェルノブイリ原発事故が起きた1986年と東日本大震災・福島原発事故が起きた2011年にその線量が突出して高くなっていることがわかります。
世界に振り撒かれた放射線により、私たちが浴びている線量も2~5マイクロシーベルト。「それくらいなら」という人も中にはいますが、人的な力で環境を1%変えただけでもとんでもないことが起きると言われています。
これが20年30年と続く中で何が起きるかは、今はまだわかりません。
核実験による放射線を浴び続けることを許していて良いのか。
核兵器のない平和な社会の実現を
核兵器を完全になくさなければ、核兵器が二度と使われないことを保障することはできません。
核兵器禁止条約はヒバクシャに寄り添ったものであり、爆弾に「ブラボー」「ツァーリ・ボンバ」などと名付ける人のメンタリティとは根本的に違います。
第五福竜丸は来年は被爆80年。
第五福竜丸は今、夢の島にある東京都立第五福竜丸展示館に置かれていますが、その航海はまだ終わっていません。
命を守る、核も戦争もない平和な社会に錨を降ろす時、第五福竜丸の航海がようやく終わります。
平和の港を目指して、航海しようではありませんか。みなさん、第五福竜丸に会いに来てください。
・・・という言葉で安田さんのお話は締めくくられました。
感動しまくりのお話で、2時間という時間が瞬く間に過ぎてしまいました。