『いま平和とはー人権と人道をめぐる9話』
『いま平和とは ー人権と人道をめぐる9話―』(最上敏樹著 岩波新書)を読みました。
2006年に発行された本で、まだ核兵器禁止条約が国連で採択される前に出版されているので多少古い部分もありましたが、なるほど!と思うこともたくさん書かれていました。
★「ローレンツは・・・(中略)・・・人間は他の動物に比べて種内攻撃や同種殺害、つまり人間同士の殺し合いが多いという研究結果を世に伝えました」(P20)
今朝、羽鳥慎一のモーニングショーを見ていたらスズメバチを取り上げていましたが、その中でスズメバチは他のスズメバチを襲うことがあると報じていて、人間はスズメバチと同じくらい獰猛で危険な生物だと知りました(@ ̄□ ̄@;)!!
★ニュルンベルク国際軍事法廷(ドイツの戦争責任を裁いた法廷)の裁きの過程でいくつかの新しい法原則が生まれました。
侵略であれ、集団殺害であれ、国策としてなされるのが普通ですが、抽象的に国家を裁くということはできませんから、国家の違法行為に対して深い責任を負う個々人を裁くことが国際法の実効性に繋がります。また「上官の命令だった」という言い訳は許さない、という原則もほぼ確立しました。ニュルンベルク国際軍事法廷憲章第8条は、「被告が本国政府又は上官の命令で行為した場合でも、被告は法的責任を免れることはできない」と述べています。
この原則は兵士たちに重くのしかかります。戦争犯罪になってしまうことをやれと命令されたときに、そのとおりに行為するかどうかの判断が、個々人の両親に任されることになるからです。(P67)
★ベルギーは1993年、他国で起きた戦争犯罪をベルギーの国内裁判所が裁くことができるという国内法を制定しました。そののち、1999年に法改正して、ジェノサイドと人道に対する罪についての裁判も加えます。このベルギーの法律を、通称、ベルギー人同法あるいはベルギー・ジェノサイド法と呼びます。(P78)
★「平和を欲すれば戦争に備えよ」。これは古代ギリシアの時代から語り継がれてきた格言だそうです。
しかし戦前戦中を通じて日本の膨張主義を戒め、戦後の一時期は首相も務めた石橋湛山はこう言っているそうです。
「昔から、いかなる国でも、自ら侵略的軍備を保持していると声明した国はありません。すべての国が自分の国の軍備はただ自衛のためだと唱えてきました。たぶん彼らはそう心から信じてもいたでありましょう。だが、自衛と侵略とは、戦術的にも戦略的にも、はっきりした区別のできることではありません。各て自衛軍備だけしか持っていないはずの国々の間に、第一次世界大戦も第二次世界大戦も起こりました。」(P92)
★戦争について思索が進むにつれ、別の問題も認識されるようになります。すなわち戦争さえなければそれで平和といえるかー。
例えば、多くの人々が極度の貧困にさいなまれ、飢えに苦しんでいるような社会は平和だろうか。また、人種や性による差別が根強く残り、女児の就学率が男児のそれよりも著しく低いような社会は平和だろうか。あるいは、字が読めないばかりに十分な社会参加ができず、自分たちが不利益をこうむっていることにさえ気づかない人がたくさんいる社会は平和か。そういう問題です。
(中略)一つの社会の中で、一方には巨額の富を占め、飽食している人がいる。もう一方にはいくら働いても十分な収入が得られず、あるいは職さえも得られず、十分な食料さえ得られない人がいる。それが当人たちの能力ややる気の問題ではなく、富の配分の仕組みが不適切であることの結果であるとしたなら、また、特定の人種や性でなかば自動的に貧困や飢餓の中に閉じ込められているとしたならーそれは社会構造が原因で生み出されている暴力と呼ぶほかないのではないか。富める人々が貧しい人々を殴りつけて飢えさせているのではなく、したがって加害者は特定できないが、社会構造の被害者はいるという意味での「暴力」なのではないか。
(中略)それまでは「戦争のないこと」が「平和」だとされていたのに対し、戦争がなくとも「平和ならざる状態」はある、という視点を理論化するものだったからです。その背後には、平和とは何より社会正義の問題なのではないか、という問題意識があります。人間が自分の責任に寄らないことで差別され、排除され、悲しみ、傷つくのは平和とは言えないのではないか、という問題意識です。
たいせつなことを学んだ気がします。戦争に対する個人の責任の重さ。
そして今国連が進めようとしているSDGsが、平和を守るために大切な取り組みとして位置づけられていることを改めて深く理解しました。
そして多くのところで、SDGsが単なる地球環境の保全のように扱われている愚かさにも改めて気付きました。