『マリヤの賛歌―石の叫び』
『マリヤの賛歌―石の叫び』(作:くるみざわしん、出演:金子順子)を観ました。
かつて日本軍「慰安婦」であったと告白した数少ない日本人、城田すず子さんの著書『マリヤの賛歌』を舞台化した作品です。
この本は私も数年前に読みましたが、原作には「ー石の叫び」という言葉はありません。舞台の制作にあたって、作者のくるみざわさんが加えた一言だと思います。
城田さんの人生はとても苦しみに満ちたものでした。
裕福な家に生まれたのに家が傾くと芸者屋に子守に出され、そこで次第に「借金」が膨らみ、転落を余儀なくされ、南洋諸島に渡り、「慰安婦」とされ・・・。戦後の人生も、何をしてもうまくいかず、「自暴自棄」あるいは「自分で自分を堕としていく」、そんな風にも読み取れる日々を暮らしながら救いを求め続け、ようやく協会と出会い、更生し、同じような境遇の女性達の居場所をつくりたいと願い、その活動に身を捧げていく・・・。
ざっくりと言えばそんな人生を生きた方でした。
「石の叫び」。
私はてっきり、城田さんの癒えることのない心の苦しみを表しているのだとばかり思っていました。
でも、そうではなかったようです。
城田さんが建設を心から願った、女性を保護するための施設「かにた婦人の村」と「慰安婦」女性のための鎮魂の碑。
その碑=石は、今生きながらに苦しむ元「慰安婦」にも、亡くなった今もなお苦しみながらどこかを彷徨い続けている元「慰安婦」の魂に「みんな、ここへおいで」と大きな声で叫んでいる、呼びかけている、苦しむ女性たちを包もうとしている・・・。
そんなメッセージに、私には聞こえました。
深い苦しみがあるからこそ、温かくて強いメッセージなのかもしれません。
「みんな、ここへおいで!」。
でも、やはり同時に叫んでもいるのです。ものすごく。
それは女性を分断する社会への怒り。
「パンパンのくせに」と蔑む社会に。
そもそもなぜ城田さんが「慰安婦」にならなければならなかったかと言えば、「前借金」という制度。「前借金」でがんじがらめにしながら、女性に身を売ることを求めた社会。
「パンパンガパンパンにならなくても良い社会を作ってみやがれ!」という、くるみざわしんさんのもう一つの「慰安婦」作品、『あの少女の隣に』のセリフに繋がる怒りがそこにあると思います。
それにしても、俳優の金子順子さん、素晴らしい演技でした。
70歳だとどこかの新聞記事に書かれていましたが、14歳の若々しい少女を描く場面では10代の女性に見えるし、30代中盤の恋をする女性の場面では本当に30代中盤に見えてしまう。
やさぐれたシーンでも傷ついたシーンでも前を向こうとするシーンでも、全てのシーンが心いっぱい演じられていて、惹きこまれました。
作者のくるみざわしんさんは、確か週刊金曜日でもこの作品を演じてくれる俳優が見つからずに困っていたというようなことを書いていたと記憶しています。2人の俳優さんから断られたとも。
その断られた時の言葉が「私のお客さんは、こういう芝居は観に来ませんから」だったと、今回いただいたチラシの中に書かれていました。
観劇をこよなく愛する者の一人として、その言葉に深く傷ついてしまいました。どんな芝居を観るかは私たち一人ひとりの観客が決めることであって、俳優さんから決めつけられることでは決してない・・・。
どんな芝居に出るか出ないかは当然それぞれの俳優さんが決めることだけど。
そんなことを改めて強く思ってしまいました。