『流れる星は生きている』

2022年01月23日

『流れる星は生きている』(中公文庫 藤原てい著)を読みました。
満州からの引き揚げ体験を描く貴重な記録です。

パートナーは満州の観象台で働き、その官舎で5歳と3歳の男児と生まれたばかりの長女とともにていさんは暮らしていました。そして1945年8月9日、パートナーを満州に残したままていさん母子は官舎の仲間とともに脱出を余儀なくされました。
一団は北朝鮮から釜山→日本への脱出を考えていましたが、終戦間もない8月20何日かには列車は平壌までしか行かなくなり、北朝鮮で足止めを食らいました。
いったんはパートナーと合流できたものの、若い健康な男性は満州へと連れて行かれ、残されたのは女性と子ども、病人だけでした。
男性たちがいなくなると一団が暮らしていた家のガラスが割られたり、一気に治安が悪化していきました。
北朝鮮への滞在が長引き、手持ちのお金が底をつきかけ、独身で身軽に動ける女性はその地で仕事を始めましたが、ていさんのような小さな子どもを抱えた女性はそれもできません。
子どもがいる分だけ食費は余分にかかるのに働くことができず、一段の中に貧富の差ができていきます。
お金の余裕のある一家はオンドルのある暖かい部屋で寝ることができ、お金の余裕のない一家は小さな子どもの体がどんなに冷え切っていてもオンドルの恩恵にあずかることはできません。
ていさんは石鹸を売ったり、人形を作って売ったりしながらお金を稼ぎました。
それでも子どもたちもていさんもろくに食べれず衰弱し、長男はジフテリアを発症し、死の淵へと向かっていきます。
幸いなことに一人の医師の善意で、長男は一命をとりとめました。

帰国のためには汽車で平壌まで行き、そこから約70キロの道のりを歩いて38度線を突破するしかないということになり、一行は動き出しました。
長い道のりを子どもたちと一緒に歩ききるために、ていさんは余分な荷物を捨て、文字通り着の身着のままその道を歩きました。
38度線を越えるためにはいくつもの赤土の山と川を越えなくてはいけませんでした。
途中ていさんと長男の靴がダメになり、二人は裸足で、突き刺さる石の痛みや破れた皮膚が化膿した痛みに耐え、それでも「歩かなければ死ぬ」と命からがら歩き続けます。
深いところはていさんの胸までもあるような川を親子3人渡るために、ていさんは長女を背負ったまままずは自分が川を渡り、向こう岸に長女をおろすと今度は次男、そして最後に長男と、疲れ果てた体で3度も往復しながら漸く渡っていったのでした。
38度線を越えた所でていさんたちは米軍の保護されましたが、その時のていさんの状態を「死んでいた」と5歳の長男は表現します。

子どもたちは栄養失調が進み、下痢が止まりませんでした。
保護された地から釜山へ向かう列車の中で失禁してしまう子どもたちに、周囲の目はとても冷たく、「親としての責任を果たせ」「母親らしくしろ」と責め立てます。
栄養失調による皮膚の異常が起き、寝返りをするとかさぶたが取れて痛みが走り、夜中にうめき声をあげる子どもたちに対してもやはり周囲は冷ややかでした。
博多港に着いてから下船するまでの間に何日も要したのですが、その間雑誌が配られますが、「子持ちの人は本を汚すから貸せない」「雑誌を読むひまがあるなら、母親としての責任を果たせ」と読ませてももらえません。
ていさんは北朝鮮を脱出するときに荷物を捨ててきたので、子どもたちも着替えがありませんでしたし、ていさんも身に着けたブラウス1枚と膝のところで切り捨てたモンペしかもっていなかったのです。
ブラウスは逃避行の中で敗れてしまいました。
そういうていさんに、同じように引き上げてきた人々が「貧乏女」「汚い」と蔑むのです。

諏訪の実家にたどり着いのは1946年の9月でした。
背中に負ぶった長女は「明日は迎えられないかもしれない」というほど衰弱しきった状態で、ていさんも「もうこれ以上は生きられない」という状態でした。

満州の話はこれまでも関心をもって、たくさんの本を読んできました。
しかしここまであからさまな、その時々の感情や人間関係を細かく描いた作品を読んだのは多分初めてだと思います。
最後まで読んで、あとがきを読んだときその理由がわかりました。
「引き揚げて来てから、私は長い間、病床にいた。それは死との隣り合わせのような日々だったけれども、その頃、三人の子供に遺書を書いた。口に出してはなかなか言えないことだったけれども、私が死んだ後、彼らが人生の岐路に立った時、また苦しみのどん底に落ちた時、お前たちのお母さんは、そのような苦難の中を、歯をくいしばって生きぬいたのだということを教えてやりたかった。そして祈るような気持ちで書き続けた。
しかし、それは遺書にはならなかった。私が生きる力を得たからである。それがこの本になった。」と書かれています。
だからこんなに赤裸々な、時々の感情を隠しもしない作品が描けたんだなぁと深く納得しました。

更に驚いたのは藤原ていさんのパートナーさんはなんと作家の新田次郎さん(@ ̄□ ̄@;)!!だということでした。
パートナーさんはていさんに遅れること3か月、シベリアから無事に生還を果たしたそうです。
そしてていさんのこの本が記録的なベストセラーとなり、それがきっかけで新田次郎さんも作家となることを決意した・・・、そういう作品でもあるとのことでした。

『孤高の人』『八甲田山死の攻防』『剣岳』など山や登山を描く作品が多い新田次郎さん。
ワンダーフォーゲル部に所属し、山歩きを趣味としていた若いころ、新田次郎さんの作品を読み漁りました。
でも満州とかシベリアとか言った言葉が作品に出てきたことはなく(私の読んだ範囲では)、シベリア抑留経験を持つ方だとは思いませんでした。
そのこともあとがきに触れられていて、新田さんは約1年間の抑留生活についてもほとんど語ることはなく、平和な時代になってもその国を訪れようとしない。作品の中で自身の引き揚げ記録らしいものはたった一度書いただけ。おびただしい作品の中には、その片鱗さえも書き込まれていはいない・・・。
それほどの体験だったのだということだと受け止めました。