なぜヒロシマ・ナガサキに原爆が投下されたのか?

2023年08月09日

今日は8月9日、長崎に原爆が投下された日から78年です。
それにしてもなぜアメリカは、これほどまでに恐ろしい原子爆弾をヒロシマ・ナガサキに投下したのでしょう?
先日の議員団会議での学びをお伝えします。

ヤルタ会談での秘密協定

1945年2月、現在のロシア(数年前までウクライナ)、当時のソ連の都市ヤルタにおいてアメリカ・イギリス・ソ連の首脳会談が開かれました(ヤルタ会談)。会談ではドイツ降伏後3カ月以内にソ連が対日戦に参戦すること、戦後に千島列島をソ連領に編入することが秘密協定で決められました。
アメリカ大統領ルーズベルトは第二次大戦後ソ連との対立が起こることは承知しつつ、その時点では連合国として協力していかなければならないと考え、ヨーロッパ戦線とアジアでの対日戦の両方で確実に勝利するためには対日戦でもソ連の力が必要だと考えていました。

ルーズベルトの急死、経験の浅いトルーマンが大統領就任

5月8日にナチスドイツが降伏し、ヨーロッパ戦線は終結しました。
7月17日から開催されたポツダム会談では、主にドイツの戦後処理について話し合うことになっていました。また、まだ続いていた対日戦をどのように終結させるかについての話し合いも必要でした。
ポツダム会談に出席したのは、4月に急死したルーズベルトに替わり、わずか80日の副大統領経験しかないトルーマンでした。

目の当たりにしたスターリンのしたたかさと執念

ポツダム会談ではソ連のスターリンが自国の戦果を強調し、それに見合う領土・権益の拡張求める姿勢は非常にしたたかであり、執念深いものでした。ドイツの戦後処理方針について特にイギリスとソ連の主張がぶつかり合い、補償や国境など結論を先送りしつつ、8月2日、『ポツダム協定』の発表へとこぎつけました。

日本戦へのソ連の参戦が迫る中、トルーマンは日本降伏後もスターリンが同じような強硬姿勢をとることを恐れました。日本の幸福はもはや時間の問題となっていましたが、どのように降伏させるかがトルーマンにとって試案のしどころとなっていきました。

原子爆弾の実験成功

ポツダム会談が始まる前日の7月16日、トルーマンのもとに「赤ん坊が申し分なく産まれました」とのメモが届けられました。アメリカが原子爆弾の実験に成功したという意味でした。
階段の初日にはスターリンから立ち話で「8月半ばには参戦できる」と囁かれ、またトルーマンは日本がソ連に和平工作の仲介を申し入れているとの情報もつかんでいました。もし和平が成立してしまったら、もしソ連の参戦で日本が降伏したら・・・。
ソ連は日ソ中立条約を破って、8月半ばには対日戦に参戦する・・・。
当時アメリカが考えていた日本上陸作戦は11月以降・・・。
連合国としてはファシズム日本に苦しめられた人々の支持を得て米ソ一緒に戦い、日本を降伏させるという大義名分が必要です。しかし戦後処理を考えたとき、そして戦後の社会主義勢力との対立を考えたとき、41年12月8日以来戦ってきた日本をなんとしてもアメリカの力で降伏させなければならない・・・。

米英中で『ポツダム宣言』を発表

トルーマンが考えた一手は、今ここで日本に対して無条件降伏の文書を突き付けることでした。
予め準備していたものに修正を加え、一旦帰国していたイギリスのチャーチル、ポツダム会談には参加していませんでしたがカイロ会談には参加していた中国の蒋介石に急いで連絡を取り、二人の承認を得て、7月26日、トルーマンが3人分の署名をして発表したのが『ポツダム宣言』でした。
ポツダム会談に参加していた米英ソではなく、トルーマンの決断で米英中の名前で発表したのでした。

その宣言の中には「原爆を使用する」との警告は盛り込まれていませんでしたが、前日の25日には陸軍航空隊戦略爆撃隊総司令官のもとに「8月3日以降有視界爆撃でできるだけ早く日本の4つの都市のいずれかに原爆を投下すべし」との命令が出されていました。

「黙殺」した日本政府

『ポツダム宣言』を知った日本政府は7月27日、外務省でポツダム宣言を日本語に翻訳し、午後からの最高戦争指導会議、さらにその後の閣議を開いて、正式回答は保留ししばらく様子を見ることに決定しました。
しかし軍部からは「断固抵抗する大号令を出すべき」「政府が宣言を無視することを公式に表明すべき」などの意見が出され、翌28日に鈴木貫太郎首相は「政府としては重大な価値のあるものと認めず、断固戦争完遂に邁進する」と記者会見で述べました。
これが連合国側には「拒否」と受け取られ、8月6日に広島に、9日に長崎に原子爆弾を投下、9日にはソ連が満州に攻め込んで対日戦に参加。自らポツダム宣言の第4番目の国に付け加えました。

米ソ協力時代の終わりの始まり

「国体護持」だけを考えていた日本政府はその確証が得られず右往左往し、軍部は本土決戦だと叫びます。誰も本音を言わない、言えない会議が繰り返されました。
莫大な国費を投入し、多くの国民のいのちを犠牲にして戦争を推進してきた政府・軍部にとって、宣言受諾=敗戦はこれまでの国策を否定することになるからでした。
こうして14日になってようやくポツダム宣言を受諾することを連合国側に伝えたのでした。
ポツダム宣言はソ連が加わったことで連合国の共同宣言としての形を整えることはできましたが、その陰で原爆の誕生をきっかけに戦後処理をめぐる米ソの主導権争いが進んでいきました。
ポツダム会談は米ソ協力の時代の終わりの始まり、冷戦の前哨戦であったと言えるかもしれません。

歴史に「もしも」があったなら・・・

もし急死したのがルーズベルトではなくスターリンで、ソ連の代表が外交にまだまだ不慣れなままにドイツの戦後処理交渉をしていたら・・・。アメリカの大統領は対日戦終結後のソ連に怯えることはなかったでしょう。
ルーズベルトが急死した後、もっと外交にも慣れた穏健な人が大統領に就任していたら、ソ連とのドイツの戦後処理交渉もうまくかわして、日本に原爆投下などという手を使おうとは思わなかったかもしれません。
日本がポツダム宣言をちゃんと受諾していたら、少なくとも軍部が「無視することを公式に表明しろ」などと言わなければ・・・。そもそも、中国やアメリカを相手に戦争しちゃおうなんて思うような政府でなかったら、きっと原爆は投下されなかったのではないでしょうか。

広島市の松井市長は広島サミット終了後に、核抑止論を改めて否定しました。
原爆の実験に成功したから、投下しようという考えに至ったトルーマン。
核兵器を持つことが使用の抑止につながるなんて、絶対に嘘だと思います。
そもそも持たないことこそ大切で、それは核兵器だけでなく軍備全般だと思います。
8月9日、長崎原爆投下の日に改めて核兵器の廃絶を心から願います。