平和は不断の努力でつくるもの

2023年07月24日

岡山で開催された自治体学校に参加しました。
4年ぶりのリアル参加での学びはとても大きかったです。

それはさておき、せっかく岡山まで来たので一歩足を延ばして広島に行ってきました。
昨年、ロシアのウクライナへの軍事侵攻を取り上げたNHKの番組で、ウクライナの方々と交流のある広島の被爆者、田中稔子さんが「罪のない住民が殺されるのは許されない。どんなに罪なことなのか想像力を持って、善良な人間をこれ以上殺さないでほしい」と訴えていました。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220326/k10013552991000.html

番組の中で田中さんが創る七宝焼きが紹介されていたのですが、その作品があまりにも素晴らしくてすっかり虜になってしまい、どうしても広島に会いに行きたかったのです。
田中さんと私のパートナーが交流があることも分かり、気軽な気持ちで広島に行きました。
ただ田中さんのお店(だと思い込んでいたら実はご自宅Σ(・ω・ノ)ノ!)がどうしても見つけられず、観光案内所でお聞きしたらすごく一生懸命調べてくださって、そのおかげで何とかたどり着くことができました。
パートナーの名前を言うと歓迎してくださって、貴重なお話を伺うことができました。

同級生の誰ひとり、生存情報がない!

田中さんが被爆したのは小学校1年生の時で、6歳と10カ月の時だったそうです。ご自宅は今の平和記念公園の近くにあり、小学校もその近くにあったそうです。低学年だったので学童疎開の対象にもならず、同級生全員が被爆し、誰一人として生存情報がないとのお話でした。
ご家族もみんな死んでしまったので、死亡情報すらないというお話でした。

何も言わずに赤ん坊の指の数を数える

田中さんが出産された時パートナーさんは仕事からすっ飛んで帰ってきて、最初にしたことは生まれたばかりの赤ん坊の指を数えることだったそうです。
ぎゅっと握った指を一本一本丁寧に開いて数え、手の指を数えると今度は足の指を数え・・・。
数え終わると初めて田中さんの方を向いて、感謝の言葉を述べたそうです。
そしてそれは決してパートナーさんだけに限らず、当時同じような世代で被爆した方のパートナーは口々に「俺もそうした」と話したそうです。
今よりも障害に対する偏見がずっと強かった時代のお父さんたちの気持ち。それはそれでよく分かるような気がします。

七宝焼きに込められた平和への願い

田中さんが七宝焼きと出会ったのは、お姑さんに進められたからだったそうです。
そこから頭角を現し、私たちが普通「七宝焼き」という言葉に抱くイメージを超えた素晴らしい作品の数々を作られています。
田中さんから頂いた冊子、『ヒロシマ・顔 田中稔子』に掲載された作品をご紹介します。

田中さんの作品の一作一作に平和への願いが込められていて、隠し絵のように(?)原爆ドームが描かれています。
また世界の始まりアダムとイブと、世界を終わらせてしまう脅威の原爆がともに描かれて作品もありました。一目見ただけで心が打ち震えるような、素晴らしい作品の数々を見せていただきました。
田中さんはこれらの作品を、ご自身の癒しのために作成し続けていたそうです。しかしその創作活動は、やがて平和活動へと広がっていきました。

ひょんなことから語り部に

田中さんは70歳になるまで人前で被爆体験を語ることがありませんでした。
語り部になったのはピースボートの旅のちょっとしたアクシデントから、他の被爆者たちから押し出されるような形で話さざるを得ないような状況に追い込まれたからでした。語ることで子どもたちの生活に影響が及ぶのではないかということも不安でした。
しかし語ってみると、何一つ語ることもできずに亡くなっていった同級生たちへの思いと、生き残った者としての使命を感じるようになっていったそうです。

平和は不断の努力でつくるもの

爆心地近く、今の平和公園の近くにあった田中さんのご実家は国の施策で立ち退きが命じられ、引っ越し先ももちろん自分たちで探すしかなかったし、立ち退きに対して何の保障もなかったそうです。
戦争とはそういうもので、始まってしまったら国の命令に逆らうことはできない。命がかかることなのでみんなが協力するしかない。特に日本人はまじめな性格なので、始まってしまえば協力せざるを得なくなる。
そもそも戦争にならないように努力することが大事。
ぼんやりしていたら国は戦争への道を歩き始めてしまうので、そうならないように不断の努力が必要。
平和はみんなの不断の努力でつくるもの。

吹き飛ばされた天井から見えた青空

田中さんは被爆してやけどを負いました。髪は逆立ち、お母さんはそれが田中さんだとはわからないような状態だったそうです。辛うじて泣き声で田中さんだとわかってもらえるような状態だったそうです。

きのこ雲が去ったあと、田中さんの家は屋根が吹き飛ばされて天井もありませんでしたが、その上に青空が広がりました。田中さんは熱にうなされ、やけどの痛みに耐えながらその青空を「きれい」と感じたそうです。
6歳と10カ月で被爆した田中さんは、わずか6歳と10カ月で「人は死ぬ」のだと知ってしまったそうです。
しかし同時にその青空に、「明日は必ず来る」とも学んだそうです。
その思いが田中さんにどんな力を与えているのかわかりませんが、田中さんは85歳とはとても思えない、若々しく溌溂としていて、作品と田中さんの語る言葉の一つ一つに何か大きな力を感じさせられました。

お会いできて良かったです。