正視すべきは歴史の真実!

2020年09月05日

先日、吉川市立図書館に『戦史叢書』を全巻寄贈したのは前教育長の染谷行宏さんとご紹介しました。
前教育・長染谷行宏さんのお父様(染谷四郎さん)が歴史を熱心に学ばれた方であり、『戦史叢書』はその遺品でした。
染谷四郎さんは1940年、「満蒙開拓青少年義勇軍」の一員として満州に渡り、大変な苦労をして帰還された方でもありました。
1990年、旧満州に「鎮魂の旅」へと出かけた染谷さんは、一緒に旅した全国12名の仲間と共に『あしかび友好訪中の記』を自費出版しました。
同書に寄せられた染谷四郎さんの記事『五十年ぶり礎の地に里帰り』が、吉川郷土史会編集・発行の『よしかわ文化』第24号(平成21年3月31日発行)に転載されています。簡単にご紹介します。

染谷さんが大陸に第一歩を踏みしめたのは1940年6月22日、15歳のときでした。
終戦時に染谷さんがいたのは通化でした。

染谷さんが所属した連隊は、8月24日に武装解除となりました。
本体は吉林に連行されましたが、染谷さんは残務整理要因として残留し、9月10日ころ本隊を追って吉林に向かいました。
しかし途中の駅で「吉林に行けば捕虜でシベリア行きとなる」と知らされ、「部隊解散、各自自由行動をとれ」と命令を受けました。
染谷さんは6名の仲間と共に宮崎・鹿児島両県出身の高千穂開拓団に世話になり、警備をしていましたが、9月18日満州事変の記念日に付近の住民・脱走した満軍・公安隊員と思われる暴民数千名に襲われました。

長い逃避行、流浪の旅の末にたどり着いたのは、撫順古城子収容所でした。
200名足らずの集団生活で、石炭の露天掘りの仕事をする毎日でした。
日本兵狩りと称したソ連兵の検問が繰り返されましたが、染谷さんは団の小学校校長の息子「林田四郎」として通過することができました。

昭和21年5月、染谷さんは発疹チフスに罹り、世話になった高千穂開拓団の皆さんや校長夫妻とも別れました。
幸いにも温かい援助を受けることができ九死に一生を得た染谷さんは、その年の8月24日に帰国することができました。

染谷さんはその手記に、こう書いています。

「国策として五族協和、王道楽土建設を旗印に、日本民族の発展を目的に満州開拓の大事業が実施されたことは、周知のとおりです。
参加した数32万人余、そのうちにはわれわれ義勇隊員8万余名も参加しています。しかし昭和20年8月9日ソ連参戦に次ぐ敗戦によって、団を守っていた婦人や年より、それに多くの子どもたちを含む開拓民は、棄民として筆舌に尽くし難い血と涙の苦労をすることになったのです。その上、約8万の生命と数知れぬ孤児を残し、いまだに解決できない多くの問題が残されているのです。
さらには、私たちは広島、長崎の原爆をはじめシベリア抑留、アメリカへの真珠湾攻撃、朝鮮半島の人々への迫害による植民地政策、そして中国では(中略)柳条湖や平頂山事件、盧溝橋、南京大虐殺、平房の七三一部隊とうとう数えきれないほどの事実を、避けて通らず、むしろ正視すべきです。互いに被害者であると同時に加害者であることを忘れず、二度とふたたび戦争をすべきではないと思います。このことを子々孫々に至るまで語り継ぐとともに、遵守しなければならないのです」。

https://beijinging.zening.info/Jilin/index.htm
https://beijinging.zening.info/Jilin/index.htm

体験した方だからこその、重みのあるこの言葉。
しっかりと受け継いでいきたいなぁと思います。