満蒙開拓平和記念館
岐阜の田舎に行ったとき、少し足を延ばして訪れたのは満蒙開拓平和記念館でした。
記念館がある長野県阿智村は、私の田舎からは恵那山トンネルを挟んで目と鼻の先で、車で1時間とかからないところに平和記念館がありました。
数年前に確かNHKで「ソ連兵に差し出された娘たち」というのが放送されました。満州に侵攻してきたソ連兵たちは日本人女性への強姦を繰り返し、それから逃れるために一部の未婚の女性たちがソ連兵に差し出されたという話でした。そうして他の女性たちの純潔を守りながら、日本に引き揚げてきた・・・。そんな話だったと思います。その時に出てきた地名が私の田舎の近隣の、あまりにも馴染みのある地名が挙げられていて本当に驚きました。
そしてその時初めて、「満蒙開拓」を全く他人事ではない本当に身近な話だと感じるようになったのでした。
長野県から「満蒙開拓団」として送り出されたのは3万人超。岐阜県の私の田舎の周辺からも1万2千人超が送り出されました。
愛知県から送り出された開拓団はただ一隊だけでしたが、何と私が中学までを過ごした北設楽郡を中心とした東三河からその一隊は送り出されたのだと最近になって学びました。
そんなことがあって「満蒙開拓平和記念館」はどうしても行ってみたい場所のひとつでした。
「満蒙開拓」の語り部たちの証言が、DVDだったり小冊子だったり写真だったり、様々な形で展示されていました。特にDVDは適切な言葉が見つかりませんが、貴重な証言の数々が胸に迫りました。
貧しさと世界恐慌の影響と国策とが交じり合い、「満蒙開拓」に送り出された人びと。
それを誇りに生きてきた人はいないのだと思いました。「五族協和」とか政府は打ち出していたけれど、日本人が一等国民、朝鮮人が二等国民、中国人は三等国民などという位置づけをした時点で「協和」等とは程遠いものだったということは、証言者たちの共通の思いのように受け止めました。
混乱の中で生き残るためにいったんは中国人の家の子どもになった人もいれば、「集団自決」を手伝わされた上に生き残って帰ってきた人、帰って来てからも村には居場所がなく福島の開拓に出向き、今度は3.11の被害で国から二度も「棄民」とされた人。
「満蒙開拓」に送り出された人びとの人生は、満州でなくなった方も、生きて帰ってきた方々も一言では表せない深く苦しいものだと思いました。
「知らない」「昔の話」「勝手に行った人たちの話」「国策だったから、戦争だったから仕方ない話」で済ませてはいけない話だと心から思います。
この歴史を、私たちはちゃんと学ばなくてはいけないと思います。