第66回自治体学校IN神奈川開催 記念講演 「紛争地、被災地に生きる人々の声―取材から見えてきたこと」安田菜津紀さん
先日参加した自治体学校IN神奈川。
記念講演のフォトジャーナリストの安田菜津紀さんはとってもチャーミングな方でした。お話は時にしんみりとして、また時にはゲラゲラと声を上げて笑い、でもとても大切なことをお話しくださいました。
ちょっと纏めてみました。
天井のない監獄 ガザ地区
昨年10月7日、ガザ地区を実効支配しているハマス、その軍事顧問がガザの域外に越境攻撃をして約1200人のイスラエル人が犠牲になった。特にガザ地区はフェンスで周囲を封鎖され、人の出入りも自由にできない、物の持ち込みも自由にできない「天井のない監獄」。
常時失業率が大体50%近く、若者に限ると70%近くにまで跳ね上がる。どれだけ勉強しようが、努力しようが、自分の欲しい未来が描けないどころか、尊厳のある暮らしが望めない状態。数十年、綿々と圧倒的な不平等と構造的な暴力が強いられてきたということを抜きにして、この問題を語ることはできない。
東日本大震災被災者に心を寄せるガザの子どもたち
2018年2月、ガザの学校を訪ねると、子どもたちが熱心に作業をしているところだった。。2011年3月に東日本大震災が起きて以来、ガザ市内の学校では被災した東北の人々の一日も早い復興を願って、被災者に宛てた手紙を綴り、復興を祈念した凧揚げを毎年3月に行ってきた。
14歳の女の子、シャヘドさんは語った。
「私は小さいころから日本の人たちが送ってくれた文房具や、そこに添えられた日本の人たちの手紙を読みながら大きくなってきた。ガザで暮らす私たちには、自分の家が壊されるということがどれだけ苦しいことなのかということをよく知っている。だからこそ、東日本大震災の映像を最初に観たときの映像を忘れることができない。あんなにたくさんの人たちが同時に家を失ってしまうなんてどんなに悲しくて、どんなに辛いことだったか。だから今度は私から何かを伝える番だと思った」。
2011年3月に始まったシリアの戦争
シリアで戦争が始まったのは、東日本大震災と同じ2011年3月。
2010~11年、アラブの春はシリアにも影響を及ぼした。政治や社会に対して当たり前に発言できる自由が欲しい、社会に対して声を上げるだけで連行され拷問されるのはおかしいと人々が路上に繰り出して抗議の声を上げ、町によっては数万人単位のデモに繋がっていった。シリア政府は丸腰だったデモ隊に容赦なく武力を向けて鎮圧を図っていったことが戦争の引き金になっていった。
不発弾の被害
シリアの戦争は政府対反政府勢力という単純な構造ではなく、その間に入り込んで勢力を拡大してきたのがいわゆる過激派組織「イスラム国」だった。
イスラム国が自分たちの首都だと主張するラッカは何度も戦闘に見舞われ、ほとんど廃墟に近くなってしまっている集落もある。不発弾の被害も多い。空襲・爆撃が治まれば帰れるという単純な話ではない。
8歳のサラちゃんはある日、自宅の目の前の路上で二人のお兄さんと遊んでいたところに突然爆撃を受けた。13歳の長兄は即死。次兄は一命はとりとめたが片目に重症が残った。サラちゃんは右足がほぼ付け根からちぎれた状態で病院に搬送され、結局は切断となった。
サラちゃんは「私たち子どもたちは何も悪いことはしていないはず。だからもうこんなことは止めてほしいと、大きい人たちに伝えてほしい」と安田さんに語った。
「大きい人」とはだれを指す言葉なのか?
サラちゃんのお母さんは、「子どもには政府なのか反政府勢力なのか、それともそれ以外の勢力なのか。この戦争にどんな勢力が関わっているかわからないし、本来関係ないはず。だからこの戦争を始めた力を持っている人たちのことを『大きい人たち』と呼ぶしかサラにはない。
大きい人たちを大きくとらえると、私たち大人のこと。私たち大人がなぜシリア・ガザで繰り返される事態を許してしまっているのだろう。
大きい人たちの一人として、日本から私たちにどんなことができるだろうということを含めて考えたい。
東日本大震災―義理の両親が住む陸前高田
日本百景のひとつ、高田松原。7万本の松林がここに生えていた。東日本大震災の津波によりほとんど更地になったが、その中で1本だけ波に耐え抜いたのが奇跡の一本松。この一本松が生えているのが陸前高田市。
震災前人口2万人強ほどの小さな町の中で、亡くなられた方・未だに行方がつかめていない方合わせて1800人近く。浸水区域当たりの亡くなった人口が一番高かったのが陸前高田市と言われている。
当時夫の両親が陸前高田市に暮らしていた。
義父は勤めていた県立陸前高田病院の4階で首まで波に浸かり、翌日ヘリコプターで救助された。その後義母が行方不明だとわかった。
2匹の愛犬のリードを握りしめた義母の遺体
一本松の横を流れる気仙川を海側から山側に遡ること9キロ地点まで津波は瓦礫を押し流し、その瓦礫を除けたところから4月9日、義母の遺体が見つかった。
義母は2匹のミニチュアダックスフンド、ミミとチョビをとても大切にしていた。義母の手には2匹を散歩させるためのリードが二本、しっかりと握りしめられていた。
2年後に偶然義母を見つけ出してくれた消防団の方とお目にかかることができた。
「義母さんのことはよく覚えている。2匹の犬と一緒だったから。あなたたち家族にずっと謝りたいと思っていた。あの時他の団員から『もう死んじゃっているが、2匹の犬が一緒にいる。どうするか?』と聞かれたが、あの時は町の人たちを瓦礫の中から探し出して、引っ張り上げて遺体安置所に運んで、それでいっぱいいっぱいだったから、反射的に『犬なんかほっておけ』と言ってしまった。でも後になって考えると、あんなところまで一緒に流されて、家族だったんだな、本当に申し訳ないと思っている」と。
大きな感謝
あの時捜索にあたってくださった皆さんも自分の家を流されたり、自分の親を連れ合いさんを、お子さんを探していたという方も知っている。皆さんも大切な方を失くした被災者だった。
とても繋がりの強い町だと聞いているので、消防団の方々が見つけるご遺体は「あそこの家の人」「あそこのスーパーで働いていた人」と顔見知りだったりする中で捜索にあたってくださった消防団のみなさんには、今でも大きな感謝を抱いている。
私たちにもできることがある
陸前高田市に何度も通う中で、仮設住宅で暮らすみなさんに海外での取材の話をする機会があった。
シリアはこの夏50度を超える暑さだが、冬になると気温がぐっと下がり、雪に見舞われる地域もある。前年は大寒波に見舞われ、戦火を逃れてお隣の国に避難したものの、そこにはプレハブやテントしかなく、子どもたちが相次いで死んでいくというようなことがあった。そんなお話を住人の方々にしたところ、「私たちにもできることがある」との声が上がった。
住人の方々がシリアの子どもたちが無事に冬越えができますようにと、子どもたちが大きくなって使えなくなったまだ奇麗な服を集めてくださった。
服の支援はマッチングがとても難しい。大量になると現地を逆に圧迫する。しかし仮設住宅に暮らす方々は避難所にいた頃から自分たちが「物資を受け取る」という経験を重ねてきているので、何が必要か必要でないか、何をどんなふうに仕分けて梱包したら受け取り易いかをとても丁寧に把握してくださったので、現地のひと家庭ひと家庭に届けることができた。
人生3度目の避難所生活
活動の中心になった80歳の女性は、避難生活は人生で3度目。一度目は1945年の陸前高田空襲、二度目は1960年のチリ地震、三度目が東日本大震災。
「3度の避難所生活はそりゃぁ大変だった。それでも国を追い出されるところまで追い詰められたことはなかった。寒い中で隣の国まで追いやられて避難生活を送っている、あの子たちの方がずっと大変な思いをしている」と語った。
「恩返し」ではなく「恩送り」
もう一人、活動の中心になったのは、仮設住宅の自治会長だった。
「自分たちは世界中から支援を受けて、ちょっとずつ日常をとりもどしてきた。だから今度は恩返しではなく、恩送りをしていきたいと考えていた時にシリアの子どもたちを知った。それだけなんだ」と。
2013年3月以降本当に様々な国の人々が支援を送ってくれた。ガザの子どもたちのように心を寄せてくれた人たちもいる。経済面だけで見れば、日本よりもずっと厳しい国々も含まれていた。
日本から国際協力をするとなると、上から目線で語られることが多く、私たちも他の国からちょっとずつ支援を受けていて、その支援の連鎖の中で世界が成り立っているのかもしれないということを陸前高田市で出会った方々に教えられてきた。
自治体レベルでの停戦決議を
サラちゃんは今義足を付けて、日常生活は何とか遅れるようになっている。しかし時々夜中に飛び起きて、泣きながらお母さんに「私の脚はどこに行ったの?」「私の脚はいつ生えてくるの?」と聞く。
11歳という成長期を迎え、脚の骨が伸びてくるため、伸びた脚の骨を切る手術を繰り返している。サラちゃんの中で戦争は終わっていない。
現在進行形ですさまじい人々の命が奪われ、奪われないまでも手足や身体の一部を奪われ続けているのがガザ地区。
自治体レベルで停戦を求める決議を挙げられている自治体が増えてきた。日本でそんなことをやってもという声もちらほらと聞くが、日本政府も国際社会の一員。その日本政府にプレッシャーをかけられるのは私たち市民の大切な役割。