終末期をどこで過ごすのが幸せなんだろう(・・?
先週末岐阜の田舎に帰り、母を連れてきました。自宅から遠くない、近隣の高齢者施設に昨日入所させていただきました。
岐阜から埼玉への長い道のり
岐阜からの移動は本当に大変でした。
要介護3で転倒しやすいので施設内の移動は車いすだけれど、ベッドからポータブルトイレや車いすへの移乗などは自力でできる。転びやすいのに一人で動いてしまうので、ベッドの下に人感センサーを敷いている状況。
そう聞いていた母でしたが、実は車いすから車への移乗も介護の仕事をしてきた私にとってさえ大変で、ひとりでは安全に介助できない・・・💦そんな状況でした。
中央自動車道を走る間のトイレ休憩、車から車いすへの乗り降りの介助、車いすからトイレへの移乗、とっても大変でした。
もっと大変に思ったのは、母の認知です。私は、母には年相応の認知症はあるものの決して重くはないと思っていました。
私たちが岐阜の施設に母を迎えに行くと、母はすぐに私たちだとわかり、笑顔を見せました。
岐阜の施設を出る時は、施設の玄関先まで入所していたお仲間のみなさんが見送りに来てくれました。中には「また来てね」と涙ながらに手を振ってくれる方もいらっしゃいました。
施設を出て母が生まれ育った地へ行くと、ご近所のみなさんや私の従姉妹たち、それから母の友人たちが集まってくれていて、母が遠い地に行ってしまうことを皆さんが心から悲しんでくださいました。母も、涙ながらにそれに応じていました。
「認知症」を実感
岐阜➡長野➡山梨➡神奈川➡東京➡埼玉への道のり、長野辺りまでは「もう少し行くと姥捨て山だなぁ」と、母は自分がどこにいるかもちゃんと理解している様でした。
ところが都心に入ったころには、「私は今日は家まで送ってもらえますか?」ととても不安な様子でした。ここがどこなのか、何故ここにいるのか、皆目わからないという印象でした。
その日は、私の自宅からほど近いホテルに一泊しました。我が家には母に使ってもらえるベッドがなく、寝起きの動作などの介助ができないので、ホテルに一泊した次第でした。
一晩寝ても、母は今どこにいるのかわからないようでした。
埼玉だと、吉川だと話しても、そんな遠くに来た記憶もなく、又「吉川」という地名にも聞き覚えが内容でした。私の自宅まで連れてきても、何度も何度も通ってきた家なのにまるで見覚えがなく、息子たちの名前を言っても誰だかわからず、私のことはヘルパーさんの一人だと思っているみたいでした。
ヘルパーさんの一人に大変なお金をかけて遊びに連れてきてもらった、とても良い天気で、遊び歩くにはちょうど良い一日だった・・・、母はそんな風に思っているようでした。
本当に連れてきても良かったのか?
こうした母の反応を通して、連れてきたことが本当に良いことだったのかどうか、改めて考えてしまいました。
母は生まれ育った地で、自分が使い慣れた方言で話ができる地で最期まで過ごすことが望みでした。岐阜が大好きな母だったのに、それを無理やり引き剥がすように連れてきたことが本当に正しかったのか、悩みます。
入所していた老健施設から退所を迫られ、他に入れる施設を見つけることができず、やむにやまれぬ選択だったとはいえ💦
トイレ介助をしているとき、母はこんな言葉を発しました。「こんな身体の動かん人を、こんな遠くまで連れてきて・・・」。
それが私に対する抗議だったのか感謝だったのか、すっかり耳も遠くなり十分な会話ができなくなった母の言葉の真意がわかりません。
間違いではないと思いたい💦
ただ、私自身は少し安心しました。
一つは施設さんの対応がとても丁寧で、入所時のPCR検査や血液検査の結果やそれに対する対応、昨夜の母の様子などを丁寧に電話してくださり、とても安心しました。
職員さんの顔が良くわかるので、余計と安心できたような気がします。
そして家から近いので、もし万が一何かあってもすぐに駆け付けてあげられます。息子からも「面会できるの?」とLINEが届き、今までよりずっと気軽に私も息子たちも面会に行くことができます。
入所時に職員さんから「自宅で看取る意思はありますか?」と聞かれました。
私は「あります」と答えました。
私の一族には、最期の看取りは私の仕事という暗黙のルールがあります。
10年ほど前に母の妹が亡くなった時も、最期の看取りは私の仕事でした。その時私のケアを見て母が「看護師って、こういう仕事をするんだ」「びっくりした」と話し、「私の時もお願いね」と言っていました。
2年半前に敬愛する伯母が亡くなった時も最期の看取りはやはり私の仕事で、集まっていた従姉妹たちはみんな、看取りを私に任せて帰って行ってしまいました💦
それなら母も私が看取るのが私の仕事かなぁと思います。
岐阜では帰るべき家がもうないので在宅看取りはできませんでしたが、今はいよいよとなったら私の自宅に連れて帰ることが可能です。
そういう意味では、連れてきたことは間違いではなかったと思いたいです。
住み慣れた地域か娘の傍か
「年をとっても要介護状態になっても、最期まで住み慣れた地でその人らしく」を支援するはずの地域包括ケアシステム。2025年を目途にと言っていたのに、整備が進んでいるとは全然言えません。
介護離職ゼロという社会も、まだまだ全然程遠いと感じます。
だけど、遠く離れた娘の暮らす地で終末を過ごすことが必ずしも「悲しいこと」「残念なこと」でもないように、今は思えてきました。
結局最後は、見送る家族の気持ちの問題なのかなぁと。
写真は、岐阜の田舎を出る時、見送りに集まってくれた母の友人の一人がくれた花束です。