『米百俵』

2025年05月22日

何でも始めると熱中するタイプです。
小学校高学年から読書にハマり、看護学校を卒業するまで本ばかり読んでいたような気がします。
その後も周期的に読書にハマってきたので、読書量は多い方だと自負しています。
特に高校生・看護学生の時は「名作」と呼ばれる本を、十分意味も理解できないままに読み漁った記憶があります。大人になってもう一度読み返すと、「そういう本だったのね!」と思うことも多く、やはり体験の乏しい若いころの読書は理解も浅かったんだと実感することがしばしばあります。

そんな私ですが、山本有三さんの本は一度も読んだことがありませんでした。
少し前に東京新聞で『米百俵』を紹介する記事を読んで、大事な本を読んでいなかった自分に気付き、慌てて読みました。

戊辰戦争の際幕府側についたために戦乱のちまたとなり、三度も街を焼かれて焼け野原と化した越後長岡。
官軍に歯向かったため禄高を7万4千石から2万4千石に減らされ、戦死した兵士の家族や負傷兵の世話もあり、藩も藩士もひどい窮乏状態に陥ったとのことです。
そんな長岡がかの山本五十六をはじめ東京帝大名誉教授に総長、軍人、博士、日赤病院院長、数々の実業家を輩出するようになっていきます。
それは何故か。

窮乏した長岡に三根山藩からお見舞いに、米百俵が送られました。
その百俵が分け与えられると藩士たちは期待していましたが、時の大参事小林寅三郎は「学校を建てる」と言い出します。藩士たちは怒りに震えますが、「食えないからこそ学校を建てる」と小林参事。
日本人同士鉄砲を撃ち合うような失策は二度としたくない。
人物さえいたら、こんな失策は起こらなかった。
国がおこるのも、滅びるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。
そう説いて米百俵を学校に変え、教育を与えることを重視した小林寅三郎。

私たちは今更にその後世を生きているので、その後の戦争へと向かっていく政治の過ちを知っているし、当時の政府の要人を多数輩出したことが素晴らしいともあまり思えません。
でも、この戯曲が昭和17年というアジア太平洋戦争真っただ中、しかも五国共存やアジアの解放のための戦争であり、日本が勝つに決まっていて、やがて世界に平和が訪れると人事られていたこの時代に書かれた戯曲だということを差し引いて受け止めなくてはいけないのだと思います。

教育こそが明日の日本を担う子どもを育てていくし、目先の満足にとらわれずに教育に投資することの大切さが良く伝わってきます。そこだけは、深く共感するところです。

一方で、武士には「常に戦場にあり」という考え方があったことを学びました。
「常に戦場にあり」。
戦のない折にも常に戦場にある心で、いかなる困苦窮乏にも耐えよ。戦場にあったら辛いのひもじいのなどと言ってはいられない。何がないの、何がたりないのなどと不平を言っておられるか。
人間どれだけ苦しみに耐えることができるかによって、初めてその人の値打ちがわかる。
皆が一体となって苦しみに打ち勝ってこそ、初めて国もおこり、町も立ち直る・・・。

こうした一文を読んで思いました。
アジア太平洋戦争での日本軍人の戦没者は230名。そのうちの約6割、140万人は餓死だったと言われています。
ちゃんと兵士たちの食糧を確保した上で戦った諸外国と違って、日本では戦闘で勝って、勝った先で奪えというような方針が取られていました。
なんと無謀な戦い方だったのだろうとずっと思っていましたが、武士の国内での戦いの理論がそのまま外国とのたたかいに用いられていたのかなぁと思ってしまいました。
古い考え方にとらわれていて、外国と闘うとはどういうことかも追及していなかったんだろうなぁと。