改めてマイプロフィール

2024年01月02日

文学少女

 私が生まれ育ったのは、愛知県と岐阜県・長野県の県境、山に囲まれた小さな町でした。小学校の同級生は9人、入学した時の全校生徒数は54人、卒業時には36人という過疎地でした。これと言って遊ぶ場もなく、小学校の頃から読書にハマり、文学少女として育ちました。

自転車で10キロの山道を通学

 その町には高校は分校しかありませんでした。中学を卒業すると大半の子どもは実家を離れ、各地で下宿をしながら高校生活を送りました。私は岐阜の高校に進学し、一人暮らしをしていた伯母の家で暮らしました。高校まで10キロ程度の山道を自転車で通学。秋のマラソン大会が近づく季節は、その道を走って通学。秋から冬にかけて満点の星空を眺めながらの通学。あの美しさは今も忘れられません。

看護学校へ進学

 国立名古屋病院付属看護学校を受験したのは、受験科目が英数国の3教科だったからでした。他の看護学校は苦手だった理科が入っていたのです。合格したのは良かったけれど、入学してから初めて看護学が理系の学問だと気付き、慌てました。苦手科目と向き合う、辛い3年間でした。
 学生寮の先輩の影響で自治会活動にハマり、共産党にも入党しました。

精神科病棟の看護師になる

 看護学校を卒業するとそのまま国立名古屋病院に就職。配属されたのは精神科病棟でした。患者さんの心と直接向き合う仕事はとてもやりがいがありました。生涯精神科の看護師として生きていきたいと思いました。
 25歳の時、別の病院の精神科医療を学ぶために上京。新たな職場で出会った夫と電撃的に結婚。精神科医療を離れざるを得なくなりました。

大作家を妄想

 上京したもう一つの理由は、小説を学ぶためでした。24歳の時に書いた小説が、ほんの小さな賞を受賞。もしかしたら自分は将来大作家に慣れるのではないかと妄想を膨らませていました。が、残念なことに自分には芸術的なセンスがないという重大な事実に気付き、筆を折る💦

二人の息子に恵まれる

 精神科医療を離れ、この先自分はどう生きたら良いのか、長い模索の日々が続きました。しばらく主婦をしていました。二人目不妊にも悩みましたが、二人の息子に恵まれたことはとても嬉しいことでした。浦和市(当時)ではご近所のみなさんと一緒に、はしかの予防接種無料化に取り組みました。三郷市では子育てサークル『のんたん』や『わが子の教育を心配している親の会』を立ち上げ、社会・地域に目覚める主婦生活でした。

訪問看護に出会う

 36歳の時、訪問看護に出会いました。在宅療養者のご自宅に伺い、その方が最期の時間をどのように過ごしたいのか、家族の思いもお聞きしながらケアをする仕事は精神科看護にも通じるものがあり、とても魅力的でした。
 介護保険制度が始まってからはケアマネや、民家を改修したデイサービスを主催した時期もありました。在宅医療・介護にのめり込み、20年近い歳月を過ごしました。

多様な人生とくらしを学ぶ

訪問看護・ケアマネ・デイサービスで学んだのは、本当に多様な生き方と人生・くらしがあるのだということでした。今でも忘れることができないのは、要介護状態なのに2歳の孫の育児と家事全般を押し付けられ、年金も搾取されていた高齢者。支援を続ける中で家族と決別し、ひとり暮らしを決意、実行する過程はとてもドラマチックで支援の醍醐味を感じました。
もう一人忘れられないのは、50代で脳梗塞を発症し、重い障害が残った方です。医師からはもう歩くことも、食べることも、しゃべることもできないと言われ、この先は療養病床を転々としながら生きるしかないというような言われ方でした。しかし自宅に戻り、次第に口から食事を摂れるようになり、今もご家族や周囲とコミュニケーションを取りながら元気に暮らしていらっしゃいます。人の限界を周囲が勝手に決めてはいけないのだと、深く学びました。

貧困の現実も

苦しかったのは、明らかにがんが脚の骨に転移していて痛くて痛くてたまらないはずなのに、病院に行くことを拒み続けた方です。「入院したらお金がかかる」。訪問看護ももっと頻繁に伺いたいけれど、「そんなに来られたらお金が払えない」と。同じような方は他にもいらっしゃいました。
今の医療ではがんの痛みはかなりコントロールすることができるのに、お金がないためにその治療が受けられない。ただただ痛みをこらえている・・・。本当に悲しい現実でした。
自宅があるので生活保護は受けられない。けれども生活は生活保護レベル以下。体力ももうないので自宅を売却するようなこともできず、息をひそめている方がたくさんいらっしゃるという現実を突きつけられました。

市議会議員を目指す

 53歳の時病を患い、退職を余儀なくされました。回復してからはまた今後の人生を模索する日々でしたが、56歳の時日本共産党から市議選にチャレンジしないかとのお話をいただきました。
 当時バイトをしていた看護大学の教授から、「介護保険制度を変えるチャンス。あなたのまちから『こうすればやれるんだ』という実績を作り、全国に発信してください」と背中を押され、チャレンジを決意しました。

 以後2期8年、市議会議員として働いてまいりました。
 今月行われる市議選にもう一度チャレンジするつもりですが、これまで学んできたことを活かしながら働いていきたいと改めて思います。頑張ります。