日本被団協 田中 煕巳さんの講演~自治体学校2025

2025年07月28日

 昨日・今日と二日間にわたって自治体学校に参加しました。
昨日の被団協の田中 煕巳さんの特別講演は絶対に聞きたいと思っていたので、参加できてラッキーでした。

田中さんのお父さんは軍人で、田中さんはお父さんの仕事の関係で満州で生まれたそうです。
お父さんは島原、お母さんは諫早のご出身で、5歳の時にお父さんが急死したのでご両親の兄弟姉妹を頼って長崎に引き上げてきたそうです。

長崎に原爆が落とされた時、田中さんは中学1年生だったそうです。
当時学校で授業を受けた記憶はなく、戦争をバックアップする仕事を中学生も担っていました。
中学3年生以上は工場で兵器の部品作りの仕事に従事し、2年生は学校で工場の仕事をしていました。
田中さんは将来は軍人になるつもりだったし、もし戦争に負けたら米兵と刺し違えて死ぬつもりだったそうです。

田中さんの自宅は爆心地から3.2キロほど離れていたそうです。
自宅と爆心地との間に金毘羅山があり、本来の標的は自宅の近くだったはずですが実際には金毘羅山の向こう側が爆心地となり、被害が少なくて済んだそうです。
原爆が投下された時、田中さんは寝転がって本を読んでいたそうです。
突然周りが真っ白になり、田中さんは自宅のガラスの下敷きになったとおっしゃっていたように思います。
爆風が家の中を突き抜けタンスなどを倒しましたが、ガラスが一枚も割れなかったので田中さんは軽傷で済んだとのことでした。

上空で爆発しているので木造家屋はペシャンコ。
家屋の中にいて梁や家具の下敷きになり、その後延焼に吞み込まれ、生きたまま焼かれて亡くなっていった人が何千人、何万人といました。
それが原爆の残忍さです。
火災は1.5~2キロの間の木造家屋のあちこちに火を付け、それが延焼していって本当の「灰」になってしまったのが町の姿でした。
放射線は身体を突き抜け、その細胞を壊し、染色体などの遺伝子を壊し、それが子どもたちに影響していきました。
外にいた人たちは熱戦で大やけどをしました。

こうしたことが瞬時に起こりました。
一瞬にして何千何万人のいのちが奪われました。
将来軍人になろうと思っていた田中さんは、戦争はやむを得ない、武器を使って殺し合いもやむを得ないと思っていました。
しかし原子爆弾の結果を見て、「こんな兵器は戦争で絶対に使ってはいけない」と思いました。

子どもながらに「市民を狙った武器を使ってはいけない」という国際条約があることを知っていました。
焼夷弾も市民を標的にしているので、本来は国際法に違反する行為で、ただアメリカが勝ったのでそれを追求できていないことは残念。
しかし原爆は焼夷弾の比ではありません。
何の予告もなしに一瞬に家の下敷きにして焼き殺すか、野外にいた人は熱線で大やけどを負わせる。
兵器とは言えないし、もし「兵器」というのであれば通常の兵器とは全く「質」が違う。
核兵器は絶対に使ってはいけないということを、それを目撃して生き残った被爆者たちはみな言い続けてきました。
そして言い続ける人たちを結集させてきたのが被団協です。

爆心地400mと700mに母親の姉と父親の姉が住んでいました。満州から引き揚げてくるときに頼った方々です。
母親の姉と孫は真っ黒こげになり、お祖父さんは大やけどを負って4~5日後に亡くなりました。
伯父は火傷も何もなかったのですが、助けを求めに行った先で倒れて亡くなりました。
5人の身内が亡くなる状況を目の当たりにしました。
川のような水たまりのあるところには何十人という人たちが水を求め、そこで亡くなり、何百人という人たちが無残な格好で殺されている姿を目の当たりにしました。
それが今日も被団協の仕事をする根本的な理由だと思っています。
絶対に戦争をしてはいけない。

田中さんは90代なのにそのお話はとても力強く、体験者ならではの強烈な説得力がありました。
戦争も核兵器も絶対にダメだという思いを新たにした気持ちです。