講談『房総 花物語』

2024年04月17日

13日(土)、三郷文化会館大会議室で「第5回 三郷啄木祭」が開催されました。
主催は三郷早稲田短歌会のみなさんでした。私が所属する三郷吉川ぶんかむらも後援する企画だったので、お手伝いを兼ねて、私も参加してきました。

甲斐淳二さんの講談『房総 花物語』、深く考えさせられるお話でした。

房総半島は啄木の娘の生誕の地

石川啄木は112年前の4月13日、26歳の若さで肺結核のためこの世を去りました。
妊娠8カ月だった妻の節子さんは啄木の死後房総に行き、そこで女の子を出産。子どもは「房子」と名付けられたそうです。
啄木祭で『花物語』の講談が演じられるのはこうした理由からだったようです。

戦前から花栽培が盛んな房総半島

房総半島の人々は半農半漁の暮らしをしていました。
平地は少なく土地も痩せているこの土地には花栽培が向いているとの一人の気付きから、花農家が盛んになっていきました。房総の地で育てられた花は鉄道を使って、全国各地へと送られていきました。

花農家は非国民⁉

1937年に日中戦争が始まりました。
戦況が悪化して日本全体が食糧難に陥っていく中で、花農家は野菜農家への転換が求められるようになっていきました。役場から何度も役人がやってきて、花農家は「このご時世に非国民」と責められました。
千葉県の花卉は禁止作物に加えられ、花栽培は天皇の命令で禁止されました。栽培した者は3年以下の懲役刑、「国賊」「非国民」と呼ばれ、世間から冷たい目で見られるようになっていきました。
種や球根を隠してはいないかと村の青年団が納屋や畑を監視するようになり、房総半島から花が一掃されていきました。

花はぜいたく品⁉

口から食べることだけが「ごはん」ではない。花は「心のごはん」だと、人目に付かないところに矢車草を植えた親子がいました。矢車草は見事に咲きましたが、ある日行ってみると全て引き抜かれ、踏み潰されていました。

陸軍中将は「花はぜいたく品」と言い、庭にほんの少しの花を植えただけでも告げ口され、その家の子どもはいじめられました。

花は平和の象徴

そんな中でも、花農家の人々は様々な形で種や球根を守り抜いていました。山奥の杉林、そして台所のぬか床の中などなど。房総半島では敗戦後すぐに花の栽培が復活し、飛ぶように売れていきました。みんな、花を待ち構えていました。
花は平和の象徴です。
今でも房総半島には花畑が広がっていますが、「非国民」「国賊」と呼ばれながらも種と球根を守り抜いた人々の思いが込められた情景です。

岸田内閣、"戦時食糧法"を国会に提出

2月27日岸田内閣は「食料・農業・農村基本法」改正案と関連法案を閣議決定し、国会に提出しました。その中には「輸入途絶など不測の事態に際し、米・麦の増産や作付け転換で花農家に芋を作ることを罰則付きで強制できる"戦時食糧法(食糧供給困難事態対策法案)"も提出されているそうです。
戦争中の日本でも「花禁止令」が出されました。それが過去のものではなく、現在のもの・近未来のものになろうとしていると警鐘を鳴らす講談でもありました。二度と同じ過ちを繰り返すことのないように、当たり前に花を育てることのできる社会を続けていきたいと心から思います。

下の記事は3月4日付しんぶん赤旗、3面の記事です。

『花物語』は紙芝居にも描かれているそうです。映画『花物語』は35年前の大ヒット作品とのことです。