東日本大震災~長男の安否を気遣い続けた日々から13年が過ぎました

2024年03月14日

早いもので、東日本大震災が発生したあの日から13年が過ぎました。

13年前、長男は仙台に住んでいました。
あの日、私は次男の高校の卒業式に義母と一緒に出席し、家に帰って一休みして、夕方から会議が始まる予定だったので、職場に向かうため、ちょうどバスを待っていたところでした。
午後2時46分、まさにちょうどバスが到着したその時に地震が発生し、立っているのもやっとなほどの大きな揺れに驚きました。
駅に到着すると既に電車は止まっていて、地震の発生源は宮城県沖だという噂を聞きつけ、大慌てで必死になって自宅に戻りました。
自宅に到着するや否やテレビを点けて、一心不乱に地震報道を見つめ続けました。
そしてあの津波・・・!!!

その時はもう、長男の安否以外何も考えることはできませんでした。
長男の下宿は八木山にあったし、学校も海からは離れていました。
忙しくしていたので学校にいるのだろうと思いつつ、もし万が一たまたま休みが取れて彼女さんと海辺に遊びにいっているなんてことは・・・・!
不安で不安でたまらない、長い時間を過ごしました。
夜遅くなって、「生きている」というメールが来た時の安堵感は忘れられません。

あの時、いろいろなことを学びました。
仙台では大学でも避難訓練が行われていて、地震が発生した時息子たちはいつもの訓練通りの行動をとったそうでした。そんな話からは、日ごろの訓練の大切さを改めて学びました。

被災後3日間は確か大学の生協かどこかでみんなで過ごし、備蓄の食料品がなくなった3日目に下宿に帰ったと聞きました。
下宿に帰ろうとして歩いていたら、初めてお会いした多分ご近所の方が「学生?備蓄してないだろう?」と言ってペットボトルの水を1本いただいたと嬉しそうに話してくれました。
いざという時、人は優しいんだなぁと学びました。そして備蓄の大切さも。

数日経って市場が再開した時、まちには人が溢れていたそうです。
ただ、誰もがみんな、ほんの少ししか買わなかったと長男は話していました。
ひとりで買い占めて、他の人が困らないように、みんなちゃんと配慮しながら買っていたと。
その頃こちらではみんなが不安に駆られて買い物に走り、スーパーでもコンビニでも商品がなくなっていましたが。

被災後数日して初めて新聞が届くようになった時、長男は初めて津波があったこととひどい被害が発生していることを知ったそうです。
今はあのころよりもスマホがグンと広がっていてるので、もしかしたらいざという時の情報の届き方は違うのかもしれませんが。

被災後しばらくの間、長男は車が無事だったので地元の知り合いの送迎などをして過ごしました。
その代わりというのもなんですが、食事を御馳走になったり、お風呂に入らせていただいたりと、助けたり助けられたりしながら過ごす日々でした。
新幹線が復活して間もなく、私は息子に会いに行きました。
そしてお世話になったそのお宅にもご挨拶に伺いました。

そのお宅のすぐそばまで津波が来ていて、近くの小学校に避難して津波に町が呑み込まれていく様子を見ていたこと。
その辺りでは親・兄弟姉妹・親しい親戚・友だち・・・、みんな誰かしら大切な人を亡くしていて、誰も亡くさなかった人など一人もいない。
下のお子さんは中学生で、多感な時期にこんな体験をして、一体どんな思いで大人になっていくのだろうという話もしてくださいました。
ほんの数メートル先まで津波が来たので、少し行くとまちの景色が一変している、ぜひ見て帰ってくださいと言われ、長男に運転してもらって津波で流された後のまちを走りました。
その様子はあまりにも衝撃で、言葉がありませんでした。

仙台の友人にお願いをして、訪問診療にも同行させていただきました。
訪問先の避難所で保健師さんたちは一生懸命被災者のみなさんの健康に気遣っていました。
が広々とした体育館はとても寒々としていて、ストーブは数台しかありませんでした。
あの時見た光景は、議員として避難所対策・災害対策について学び発言する今の自分に繋がっている気がします。
長男が震災を機に地域のみなさんと様々な関係を結んだ話は、その後きよみ野のみなさんと一緒に「つながるサロン💛きよみ野」を始めた動機にもなったと思います。
いざという時、大災害や何かが起こった時にお互いに安否を気遣い合えるような、顔と顔がつながる地域づくりをしたいというのが私の動機でした。

東日本大震災の時に長男が仙台にいたと言ってもいのちの危険にさらされたわけでもなく、こういう話をすることはなかなかできませんでした。
13年を経て改めて長男の無事を幸せに思い、お世話になった方々に心から感謝し、あの時の学びを議員としての活動や地域の中での活動に活かしていきたいと改めて思います。