「16歳で被爆した少女が、80年後の今伝えたいこと」
12日(日)、三芳九条の会の学習会に参加させていただきました。学習会のテーマは『16歳で被爆した少女が、80年後の今伝えたいこと』、講師は被爆者で被団協の一員でもあり、原爆の語り部をされている服部道子さんでした。
この学習会に参加したいと思ったのは、服部さんが当時看護学生で看護師見習いとして被爆直後の広島で救護を務めた方だと知ったからでした。

服部さんのお話を簡単にご紹介します。
東京から広島へ
服部さんは1929年3月10日生まれ、96歳です。麻布で生まれ、その後蒲田で暮らしていました。
お父さんは無線局長で欧州航路で仕事をしていましたが、戦時下では軍属となり、広島で兵士たちに無線教育をしていました。蒲田の家に帰る日が年に10日もないような状況でした。
小学校5年生の時に家族で広島のお父さんに会いに行ったところ、東京は危ないからとお父さんが家を用意してくれていて、みんなでそこで暮らすことになりました。
看護科進学と学徒動員
服部さんは国民学校高等科を卒業すると、5年制の女学校、看護科に進学しました。
午前中は学徒動員で兵器廠や被服廠に行きました。被服廠では軍服のボタン付けや穴かがりをしました。戦争も末期になってくると、被服廠に回って来る軍服は質素で血糊でべっとりとした、ぷーんと匂うような古い服が回ってきました。銃弾が当たった軍服の穴をかがったりしていました。
兵器廠でも錆びた鉄砲を磨きましたがどれも錆びていて、こんな弾で日本が勝つとはとても思えませんでした。
物資が欠乏し武器をつくる金属が不足する中で、磁石で砂鉄を集める仕事もしました。惨めでした。
見習い看護師
5年制の女学校でしたが、4年で繰り上げ卒業することになりました。お父さんが暁部隊の教官をしていた関係で、服部さんは暁部隊の軍医部で働くことになりました。
45年4月のことでした。
8月6日
8月6日は月曜日でした。当時は月月火水木金金で、土日の休みはありませんでした。それでも月曜日なので、新たな週を頑張ろうと思って服部さんは家を出ました。飛行機雲を見ました。飛行機雲など見たこともなかったので、奇麗だなぁ、何だろう、不思議だなぁと思いながら見ていました。
8時に軍に入り、朝礼。
15分に朝礼が終わり、部屋に入ろうとしたその時、光りました‼
その瞬間、服部さんは二本の手で、目と鼻と耳を押さえて口を少し開きました。これは条例でも定められていたことで、繰り返し訓練をしてきたことでもありました。目を押さえるのは目玉が飛び出さないように、鼻を押さえるのは悪いものを吸い込まないように、耳を押さえるのは鼓膜が破れないように、口を少し開けるのは内臓が破裂しないようにと教えられていました。
暫くして立ち上がると、辺り一面ぺちゃんこになっていました。木も建物もすべて野原と化し、広島の街が燃え盛っていました。服部さんには丸焼けに見えました。
服部さんが被爆したところは、爆心地から約3kmのところでした。
軍の立派な防空壕が潰れかかっていて、中に入ると喚き声だけが聞こえました。みんなが怪我をしている中で、服部さんは奇跡のように怪我ひとつありませんでした。
救護所で
防空壕を出ると、それぞれ部署に戻り上官の指示に従うように命じられました。
救護所をつくりましたが、そこは野戦病院と化していました。
みんな怪我を負っているので、一人では病院まで来られません。来る人来る人、髪は逆立ち、顔は膨れ上がり、目鼻も分かりません。男性か女性かの区別もつきません。血と粘液と泥とでオバケのように、ぼろきれのように、ワカメのように「救けてください」「救けてください」と言っていました。
救護所には薬もなく、リバノール(消毒薬)も赤チンも、水もありません。どうすることもできません。それも怪我をしている人はひとりではありません。10人も、100人も、それ以上です。
トラックで負傷した人たちが運ばれてきますが、ムシロを敷いて寝かせてあげるのがやっとでした。
人間として死ねない
話ができる人からは住所と名前を聞いて、紙に書いて頭のところに置きました。身内が探しに来たら、すぐに分かるように。しかし誰も来ず、何日か経ってから来てももう死んでいました。
幼い子どもにはカンフル(当時の蘇生剤)を注射してあげました。兵隊は「市民は後にして、兵隊から射て」と、しかも上官からと言われました。
3~4日経つと傷口にハエがたかるようになりました。ハエは「穴」が好きで、鼻の穴や傷口などに卵を産み付け、それがすぐに孵化しました。蛆虫が膿を吸ってハエになり、また卵を産みます。膿を吸われるとき痛痒く、一つ一つ取ってあげましたが、蛆虫がわいている人はひとりや二人ではありませんでした。
被爆者は人間として死ぬことができません。手当てする術もありません。
子どもを負ぶった大火傷のお母さんから「子どもだけでも救けてください」と言われて負ぶい紐をほどくと、赤ちゃんの首がありませんでした。
服部さんは思わず「赤ちゃんの首がない!!」と叫びました。
お母さんは「ぎゃっ!!」と言って倒れ、そのまま息を引き取りました。
なぜあんなことを言ってしまったのか・・・。
何百回話しても泣けてきます。
核兵器を使ってはいけないと言い続けたい。
ヒロシマ型原子爆弾
太陽の表面温度は6000℃です。鉄は1500℃の溶鉱炉で溶けます。
広島に投下された原子爆弾は地上600m、東京タワーとスカイツリーの間くらいの高さで炸裂し、爆心地のひょうめのんどは3000~4000℃に達しました。
大谷翔平選手の投げる球は時速150kmですが、ヒロシマ型原子爆弾の風速はその3倍の速さでした。赤ちゃんの頭はスポッとなくなっていましたが、血も出ていませんでした。それだけの風力だったのです。
人間として死ねない、そんなことがあってはなりません。
誕生日が3月10日の意味
服部さんのお誕生日は1929年3月10日ですが、本当に生まれたのは3月8日でした。
3月10日は陸軍記念日でした。その日がお誕生日なら、みんなに賑やかに祝ってもらえるだろうと、両親は2日後の3月10日に出生届を出したのでした。
3月10日は東京大空襲の被でもあります。
陸軍記念日だから9日の夜は警戒が手薄になるだろう、反撃されないだろうと考えて、アメリカはその日に東京を焼夷弾の嵐にしたのだと思われます。
今、誰もその日が陸軍記念日だったとは知りません。きっと、言えないのでしょう。
原爆投下前、アメリカは「疎開するなら広島へ」というビラを飛行機で撒いていたというお話しもありました。
広島にたくさんの市民・国民を集めておいて、被害をより大きくしようと目論んでいたのではないでしょうか。