2023平和のための吉川・戦争展

2023年09月09日

遅くなってしまいましたが、8月20日(日)、市民交流センターおあしす多目的ホールで開催された平和のための吉川・戦争展について、改めてお伝えします。
今年の企画は信越放送のドキュメンタリー、『あなたのいない村~満蒙開拓を語り継ぐ』を視聴した後、敗戦の混乱の中で中国・満州から引き揚げてきたお二人の方にその体験を語っていただきました。
『あなたのいない村~満蒙開拓を語り継ぐ』も素晴らしい、胸を打つドキュメンタリー番組ですが、吉川に住むお二人の方の中国・満州からの引き揚げ体験をお伝えしたいと思います。

戦争は人の心を変えてしまう

中国からの引き揚げを語ってくださったのは、勇順子さんです。昭和12年生まれの勇さんは4歳の時にお父さんの仕事の関係で中国・徐州に渡りました。

日本人が中国人の車からお金も払わずに降りてきて、支払いを求める中国人を殴りつけるのを目撃しました。人が人を殴るのを初めて見た勇さんは、本当に怖くてたまりませんでした。
また、満員電車に座っていた中国人を殴りつけて立たせ、自分が座っていました。戦争は人の心を変えてしまう。恐ろしい。二度と会ってはならないと勇さんは語りました。

小1で実弾磨きの勤労奉仕

小学校一年生のある日教室の机や椅子が片付けられ、真ん中に鉄砲の実弾が置かれました。先生は「日本の兵隊さんが使う鉄砲の弾だよ。実弾だから、底を叩くと爆発する」と言いながら、勇さんたちにやすりを渡しました。

勇さんは「落としたら大変だ」とその実弾をしっかりと握り、一生懸命錆を落としました。授業は一切なく、毎日毎日その錆びた日本軍が使う鉄砲の弾を磨き続けました。

恵まれた引き揚げ

勇さんの引き揚げは、比較的恵まれたものでした。
終戦時、中国では蒋介石と毛沢東とが激しく戦っていました。そこに侵略国である日本人がいたら、中国はますます混乱を深めてしまうとして、アメリカはとにかく早く日本人を内地に返そうという政策をとりました。その結果、勇さんたちはスムーズに引き上げることができたのでした。
徐州から屋根のない貨物列車で上海に向かい、上海からアメリカの貨物船で日本に帰りました。ただ日本に向かう引き揚げ船の中で亡くなる人もいました。通常、水葬をするときは遺体を遺棄した場所を船が3回旋回するものだそうですが、その時はそんなゆとりもありませんでした。
船内では発疹チフスが流行していました。

「怖い」と感じなくなる

帰国してからが大変でした。勇さん一家は中島飛行機の寮に入居しました。約9,000人が入居しましたが、会社に勤めることができたのは42%。58%は無職でした。勇さんも小学校6年生で住み込みで赤ちゃんのお世話をする仕事に就きました。
ある日赤ちゃんが縁側から落ちてしまい、勇さんは起こった主に日本刀を突き付けられました。しかし怖い体験をし過ぎた勇さんは、「怖い」と感じることもできませんでした。

「戦争があってはならない。平和が続くことを心から願っている」と勇さんは語りました。

敗戦当夜の中国人の襲撃

小林敬子さんは昭和13年、中国の新京(現・長春)に生まれました。敬子さんのお父さんは満鉄鉱山で働き、敗戦時には支社長を務めていました。

熱河省承徳で敗戦を迎えました。小林さんたちは貨車に乗せられ、「ジョジカワ

敗戦を聞いたその夜、中国人が襲ってくるという噂が流れ、山の上の水源地にみんなで集結しました。実際にその夜中国人に襲撃され、社宅は全部焼かれ、持物も全部何もかも盗られてしまいました。満州人は子どもには手を出さないという噂があり、子どもだった小林さんは大勢の人の貴重品を預かり、身体に巻きつけていました。実際に、子どもには手は出しませんでした。
が、赤ん坊の汚れたオムツまで盗られてしまいました。

夜道を逃避行

中国人がいなくなると、夜明けを待たずにみんなで錦州を目掛けて走って逃げました。錦州までは約20km。走ったり歩いたり、走ったり歩いたりしながら、錦州に着いたのは夕方頃でした。2歳の弟が怖がってお母さんから離れず、お母さんがその弟を、事務職員の若い女性に下の弟を負んぶしてもらって逃げました。

2人の弟の死

最初の頃はコーリャンのご飯が出ていましたが、みなさん持ち金もなく、働き手もなかったので段々と重湯になっていきました。小さい子や赤ん坊が死んでいきました。1月2日には角砂糖くらいの大きさのお餅が配られました。2歳の弟はそのお餅を食べて、死んでいきました。

下の弟は2月に亡くなりました。兵舎の横の氷の上に遺体を乗せ、土を盛りました。
中国ではそれを「土饅頭」と呼ぶそうです。

日本政府がとった定住政策

小林さんたちが引き揚げ船に乗ったのは、翌年6月のことでした。船は佐世保に着きましたが、持物を持っている人はほとんどいませんでした。あまりにもひどい状態での帰国を余儀なくされたのは何故だったのか、つい最近になって初めて分かりました。

日本政府によって満州にいた者だけがソ連に手渡され、父親たちはみなソ連に連れて行かれました。満州は日本の傀儡国家で、日本政府は定住政策を取りました。アメリカ政府が中国にいる日本人を一刻も早く帰国させようとした政策と、日本政府のとった政策は全く逆でした。定住させたかったのかと思いました。

語りたくなかった

吉川・戦争展は今年9回目を迎えました。実は小林さんは第一回目の戦争展でも、引き揚げ体験を語ってくださいました。「あの時に語って、それが最後だと思っていた。本当は語りたくなかった。思い出したくなかった」との小林さんの言葉は、参加者の胸に重く響きました。

本当に辛く、思い出したくない体験を話してくださった勇さん、小林さん、本当にありがとうございました。
政府が同じ過ちを二度と繰り返すことのないように、この学びを大切に活かしていきたいと思います。