吉川市戦没者追悼式・平和のつどい
今年も8月2日(土)、吉川市戦没者追悼式・平和のつどいが開催されました。戦没者追悼式のあと、平和の歌声・平和の朗読・吉川市平和都市宣言・昭和館次世代の語り部による講和が行われました。
平和の朗読は吉川市演劇プロジェクト有志のみなさんによるもので、峠三吉さんの「にんげんをかえせ」、栗原貞子さんの「生ましめんかな」など8作品が読み上げられました。
「生ましめんかな」という詩は以前読んだことがあるような気がしますが、目で読むのと違って耳から聞くと新たな新鮮さがあったというか、改めて詩の凄さを感じました。
生ましめんかな
こわれたビルデングの地下室の夜であった。
原子爆弾の負傷者達は
ローソク一本ない暗い地下室を
うずめていっぱいだった。
生臭い血の臭い、死臭、汗くさい人いきれ、うめき声。
その中から不思議な声が聞こえて来た。
「赤ん坊が生まれる」 と云うのだ。
この地獄の底のような地下室で今、若い女が
産気づいているのだ。
マッチ一本ないくらがりでどうしたらいいのだろう。
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
と、「私が産婆です。私が生ませましょう」と云ったのは
さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。
生ましめんかな
生ましめんかな
己が命捨つとも
この詩は広島市千田町の旧郵便局の地下室での、栗原貞子さんの実体験に基づくものとのことです。
昭和館次世代の語り部の方は、『もしも魔法がつかえたら~戦争孤児11人の記憶』という本に基づいた、戦争孤児たちの実体験を語りました。
戦争孤児とは?
両親がいて、当たり前の家庭に育った子どもが空襲で親を亡くして独りぼっちになり、戦災孤児となりました。戦争さえなかったら、ごくごく普通に生きた子どもでした。
しかし親を亡くして独りぼっちになった子どもたちはガード下で、人々からは「野良犬」「虫けら」として扱われ、人には言えない苦労の中で生きるよりほかにありませんでした。
子どもたちを強制的に保護収容する「刈り込み」が行われましたが、保護された子どもたちは「一匹、二匹・・・」とまるで獲物のように数えられました。また「お前たちは野良犬で、町のゴミみたいなものだ」とひどい言葉を投げかけられました。収容施設では、逃げ出さないように裸のまま収容されました。
なぜそんなことになったのかということに心を寄せる人は誰一人いませんでした。頼る人が誰一人としていない孤独の中で、何度も死を考えながら生きてきました。
こうして生きてきた孤児たちは戦争孤児だったこと、「浮浪児」としてひどい扱いを受けたことを他人に話すことはできませんでした。何故なら、それを話すことでひどい差別を受け、就職や結婚などに影響することが予想されたからでした。
戦争孤児は12万人超
昭和23年、厚生省は戦争で親を失った孤児たちは全国で12万3511人と発表しました。席が全て埋まった東京ドームの2と5分の1個分に相当する人数です。年齢別では8歳以上の子どもが全体の9割以上を占めています。
施設に収容された子どもは全体のわずか1割。親戚の家に預けられた子どもは10万7108人。
誰からも保護されることなく、「浮浪児」や「駅の子」と呼ばれる路上で暮らした孤児たちは所在が確定せず、この人数に含まれていません。
体験を語り出した孤児たち
11人の孤児たちの辛い体験をまとめたのが、「もしも魔法がつかえたら~戦争孤児11人記憶」(講談社)です。
「戦争で親を失った子どもたちの苦しみが、二度とあってはならない」、「今の子どもたちに自分たちと同じ思いを絶対に味あわせたくない」との思いからです。「戦争孤児」と呼ばれた子どもたち一人ひとりに異なった形の辛い体験があり、それぞれの悲しや痛みがあったことに少しでも思いを馳せていただきたい。
そんなお話でした。
素晴らしいつどいでした。