『原発死-一人息子を奪われた父親の手記』
『原発死―一人息子を奪われた父親の手記』(松本直治著 潮出版社)を読みました。

原発で安全管理の仕事をしていた31歳の一人息子さんが舌がんで亡くなり、その原因は原発にあるのではないか、原発は本当に安全なのかと様々な角度から調査し、苦しみ、疑念を抱くお父さんの手記です。
息子さんが亡くなったのは1974年、この本が出版されたのは1979年と今から50年近く前の話です。
私が読んだのは2011年8月に出された増補改訂版ですが、読んでいて50年も前のこの本がなぜ東日本大震災の年に増補改訂版として出されたのか、その意味がとてもよくわかる気がしました。
息子さんが舌がんに罹った時、お父さんは当然原発での被爆の影響を考えて医師に確認をしました。
すると原発側も同じことを主治医に確認したことがわかりました。原発側も不安だったのです。そして、それが外に出て行っては困るのでしょう。
人間は誰でもいつかは死ぬし、がんに罹るリスクも誰でも持っています。だから、「原発が原因のがん」という証明は誰にもできません。
では原発側は「被爆によって発症したものではない」との反証を挙げることができるのか?
公害罪法5条には「推定規定」があり、有害な汚染物質によって地域内の住民の生命に危険が生じたと考えられる場合、推定で工場が公害罪の犯人と指摘されることを明確にしています。しかし原発に「公害罪」は適用されていません。
アメリカの原子力委員会に「ラスムッセン報告」というものがあり、原発の大事故は1万年に1回しか起こらない、だから絶対安全とされているそうです。が、その「大事故」というのは広島型原発の200~1000発分の死の灰を飛散させる威力を持つという設定とのこと。
では小さな事故は起きても良いのか、小さな事故が繰り返されていても「絶対安全」なのか・・・。
放射線の許容量について一般の人は年間1mSv(ミリシーベルト)とされている一方原発労働者は5年間で100mSv、年間50m㏜を超えてはならないとされています。しかも福島第一原発事故の際には、この基準は250m㏜にまで引き上げられました。
でもその根拠はどこにあるのか?
原発で働いていると耐性ができて、ちょっとやそっとのことでは影響を受けない身体になるというわけでもありません。
ましてや大変な事故に際しては、原発労働者の身体が突然強靭になり、許容量を引き上げても健康を害しない・・・なんてことも、当然あるはずがありません。
その「安全」には根拠がない。
そして「人間の命は地球よりも重い」。
この重大な事実に目を背けたまま、日本の原発は推進されてきました。
そしてその姿勢は、50年を経た今も全く変わっていません。
この本を書いた松本直治さんは、東京新聞・北國新聞を経て北日本新聞社の編集局長・論説委員長・取締りを歴任した方とのことです。
息子さんを亡くした悲しみを綴ってはいますが、ただの慟哭ではありません。
冷静に客観的に原発の安全性について書かれています。
また井伏鱒二や棟方志功と交流があり、文中に棟方志功の言葉が紹介されています。
オドロイても おどろききれない
ヨロコンでも よろこびきれない
カナシンでも かなしみきれない
それが板画です
とても胸に沁みる一言でした。
