『その虐殺は皆で見なかったことにした~トルコ東南部ジズレ地下、黙認された惨劇~』
『その虐殺は皆で見なかったことにした~トルコ南東部ジズレ地下、黙認された惨劇』(船越美夏著、河出書房新社)。

推定人口約3,500万人。中東ではアラブ・イラン・トルコの各民族に次4番目に大きな民族だが、居住地体が国境によって分断されてしまったために、現在はトルコ・シリア・イラン・イラク・アルメニアで「少数民族:として暮らしているクルド人。
クルド人の独立と自由への希望は、トルコ・イラン・イラク・シリア、4つのナショナリズムと天然資源などを巡る大国の思惑に翻弄されながら、利用し利用され裏切られるということを繰り返し、現在もそれが続いている。
国連は先住民族を「世界のもっとも不利な立場に置かれているグループの一つ」と説明。2007年に採択された「国連の先住民族権利宣言」は、植民地政策や同化政策により固有の言葉や文化を否定され、土地を奪われるなどしてきた人々を先住民族と規定。日本のアイヌを含め、先住民族は90カ国に3億7千万人いるとのこと。
先住民族の権利に関する国連宣言は、「同化を強制されない権利」や「自治を求める権利」をはじめとした44条で構成されている。
が、支配力を持つ側にはこうした「権利」や「アイデンティティ」への渇きは自分たちに歯向かう驚異の始まりとして警戒心を抱かせるものでしかない。
クルド人は自由と独立を求めてしばしば立ち上がったが、そのたびにトルコ政府は圧倒的な武力で押さえつけた。1937~38年、政府は無差別の苛烈な住民虐殺を実行し、死者は1万とも4万とも言われる。
1984年、クルドの独立を掲げるクルド労働者党(PKK)が武装闘争を開始し、トルコ国軍との激しい戦闘に巻き込まれ、市民を含め双方で4万人が死亡。90年代にも苛烈な戦闘を繰り広げ、2013年に和平プロセスを開始。
しかし2011年に始まったシリアの内戦に乗じて台頭したイスラム国(IS)はシリアの要衝、トルコと国境を接するクルド人の街コバニへ侵攻。国連はトルコに支援を要請したがエルドアン大統領は消極的な姿勢。エルドアン大統領に対するクルド人の不満が渦巻き、2015年6月に行われた総選挙でエルドアン大統領は大敗。
きっかけは定かではないが、選挙から1か月後、和平プロセスは崩壊。
ジズレの町はナチスに空爆されたスペインの町ゲルニカのように、クルド人の精神の都、自由と独立への闘いの象徴だった。
和平プロセスが崩壊した一か月後、ジズレは自治宣言。
これに対し政府軍は24時間外出禁止令を出し、町はトルコ軍戦車と兵士に包囲され、水や電気が切られ、病院に行くこともできなかった。9月は気温が35度を超える日も多く、死者を冷蔵庫に入れて保管するしかなかった家族もいた。
こどもから高齢者まで多数のの市民が射殺され、政府は「死亡したのはテロリストだった」と発表。
市民が逃げ込んだ地下室にクルド人の国会議員が駆けつけ、大けがをしている市民のために救急車を呼ぶ。しかし救急車は現場から1キロも離れたところに停車。ここまで歩いてこいと言うが、歩いて行けばそこにスナイパーがいて銃撃される。又は救急車の代わりに装甲車が来て、激しい攻撃を加える。
戦車が家屋を破壊しながら進軍し、目の前に現れた建物を爆撃し、殺害された仲間の遺体の上を通り、ばらばらに潰していく。砲撃で空いた穴からガソリンが入ったペットボトルが投げ込まれ、直後に火が投げ入れられ、重症のけがで動けないクルド人たちは悲鳴をあげながら燃えていった。
更に催涙ガスが撒かれ、まだ生きている人間がいれば咳をするだろう、咳で居場所がわかればそいつらも生かしてはおかない・・・。
2015年、欧州には100万人を超える難民が中東やアフリカから到着し、難民政策を破綻させていた。難民は内戦が続くシリアやアフガニスタン、イラクからの人々が大半を締め、トルコを経由して欧州を目指していた。
当時トルコは既に300万人ちかいシリア難民らを抱えていたが、難民を通過させずにトルコ国内にとどめる代わりに、EUが30億ユーロを支援することなどを盛り込んだEUとの「共同行動計画」に2015年11月末、合意した。
EU内では「トルコの協力なしには難民流入は抑えられない」という見方で一致していた。
そしてトルコ政府によるクルド人大虐殺、しかも非常に残忍な虐殺に国際社会は沈黙し、見なかったことにした。
そんなことが書かれていました。
クルド人が自国でこんなにもひどい地獄を生き、そしてその地獄を逃れて日本に来た人々なのだということが本当によくわかる一冊でした。
苦しくて、読むのが大変でした。
