Yes Meens Yes
今日読み終えた本は、『なぜ、それが無罪なのか⁉ 性被害を軽視する日本の司法』(伊藤和子著 ディスカヴァー携書)です。
Amazonから時々送られてくるメール、「おすすめの商品」の中で紹介されていて、そのまますぐに注文してしまいました💦
昨年3月、娘が中学2年生の頃から性的虐待を続け、19歳になった娘と性交した父親に対する準強制性交等罪の事件で、名古屋地裁岡崎支部は父親に無罪判決を下しました。
その理由について裁判官は、
「例えば性交に応じなければ生命・身体等に重大な危険を加えられる恐れがあるという恐怖心から抵抗できなかったような場合や、成功に応じるほかには選択肢が一切ないと思い込まされていたような場合とは異なり、抗拒不能の状態にまで至っていたと断定するには、合理的な疑いが残る」と言いました。
女性が被告人に対して抵抗し難い心理状態にあったとしてもそれだけでは不十分で、
● 生命・身体などに重大な危害を加えられる恐れがあった
● 性交に応じるほかには選択肢が一切ないと思い込まされていた
という、極めて高いハードルを課して、これをクリアしない限り、いかに制虐待があっても、親から無理やり性交されても、レイプにはならない、父親には何らの刑事責任も問われない、それがこの裁判の判決です。
刑法には「暴行」という言葉がたくさん登場しますが、同じ「暴行」でもランクがあり、広義の暴行・狭義の暴行などと判れているそうです。
公務執行妨害罪が成立するためには広義の暴行(人・物に対する直接・間接の有形力の行使)があれば足りるのに対し、強制性交等罪は再狭義(人の反抗を抑圧するのに足りる有形力の行使)がなければ成立しない・・・。
「人の性的自由というのは、公務より著しく軽く見られている」と著者は書いています。
・・・ショックでした!!!
2017年、18歳の女性がスポーツクラブで、前夜初めて会った男性に無理やり性交される被害に遭いました。
スポーツクラブに入ったばかりの女性に、器具の遣い方を丁寧に教え、出口で女性を待ち構えて飲みに誘い、酩酊した女性をタクシーに乗せて自宅に連れ込み、服を脱がせ、動画を撮影した男性。
男性は、女性が抵抗すると「うるさい!」「殺すぞ!」と脅し、無理やり性交し、最後には「動画をばら撒く」とまで脅しました。
女性は翌日警察に被害届を提出し、男性は逮捕されました。
しかし検事は女性を呼びつけて、男性が撮った動画を見ながら、「君は『動画を撮るのをやめてください』とは言っているけれど、『性交するのはやめてください』とは言っていない」と言って、男性を不起訴処分にしてしまいました。
・・・なんという検察の無神経さ!!!
これも本当にショックです!!!
2017年6月に刑法が110年ぶりに改訂されました。
「強姦罪」が「強制性交等罪」となり、女性だけでなく男性の性的被害も対象とされるようになりました。
厳罰化がなされ、その罪の最低ラインが懲役3年から5年になりました。
そして、被害者の告訴がなくても起訴できるようになりました。
更に、親等の監護者による性的虐待も処罰の対象とされました。
そして2020年には、見直しを検討するという規定もできました。
それでもまだ日本の刑法は抗うことがとても困難だったというようなひどい暴行や脅迫があり、それを証明できなければ罪に問うことができない状況です。
諸外国でも性犯罪については「暴行・脅迫」を要件としていましたが、今は見直しが進み、こうした要件が撤廃されつつあるそうです。
「相手の同意のないまま、相手が拒絶しているのに性行為をすることそのものを犯罪として処罰する国が増えつつある、というのが世界のトレンド」だそうです。
No Meems No !
という考え方を取る国が増えているのです。
そしてカナダでは一度「Yes」と言っても、その途中で次にしようとしている行為には「No」と言った場合にも、その行為はその時点でストップしなければならず、無理やり性交に及んだら「犯罪」だと規定しているそうです。
2018年に改正したスウェーデンの法律では、「No Meens No」よりも更に一歩進んで「Yes Meens Yes 」という考え方で、大変注目されているそうです。
「相手がYes と言っている、相手が自発的に参加している場合でない限り、性行為を行うのはレイプ」としているそうです。
No Meens No だと、「Yes かNoか不明」の場合は「No」ではないので無罪になってしまいます。
しかしYes Meens Yes だと、「Yes」でない以上有罪と考えられるということです。
アメリカのある高校では1学期すべてを使って、週1回くらいの割合で「相手から明確な同意を得られたときのみ、性行為に進むことができる」ということを教育しているそうです。
Yes Meens Yes という考え方を社会の常識にしていくことがとても大切で、「罪に問う」というのは最終手段。
そもそも罪に問わなくて済むように、社会がこのルールを十分に認識することが重要なんだと著者は書いています。
・・・本当に、そんなルールの社会をつくっていきたいものです。