長男を出産した後、私は二人目不妊に本当に悩みました。
たとえ二人目といえども、自分が「不妊」に悩むなどと想像したこともなかったので、あのころは心が家さぐれまくっていました。
妊娠してもすぐに流産することも繰り返していて、医師から「黄体機能の低下」を指摘されました。
妊娠はできるけどそれを継続する力がない、妊娠を継続させるのに必要な「黄体ホルモン(プロゲステロン)」が不十分なので流産してしまうのだろう。次に妊娠に気付いたら、その瞬間に受診しなさい、黄体機能を補う薬を処方するからと言われました。
次男の妊娠に気付いた5週と二日めくらいに大急ぎで病院に行き、漢方薬を処方してもらい、次男は無事に生まれることができました。

「あんな奴ら」

2025年06月27日

昨年12月議会で「中原市長に猛省を求める決議」を挙げる前、私たち11名の議員は中原市長への抗議文を提出しました。そしてその際市長への面会を求めましたが、市長は私たちには会いませんでした。
抗議文を受けとった副市長から市長は議員のみなさんにお話しする用意はあると言われましたが、「危険人物」と名指しされた私たちや抗議文に名前を連ねた議員と直接会って話をするという姿勢はありませんでした。
なので文書で回答してくださいとお願いし、その解答すらなかったことが「猛省を求める決議」へと繋がったわけです。
6月議会、A議員の質問はあの時なぜ会わなかったのか、ちゃんと会って話をしていればそれ以降のゴタゴタはなかったのではないか、というような趣旨だったと私には受け取れました。

アンパンマン

2025年06月23日

もうずいぶん前の話になってしまいましたが、長男が学生時代の6年間を過ごしたのが仙台でした。
二人でアパート探しに行ったこと、引っ越しの荷物を我が家の乗用車一台で運んだこと、大学生活で必要なものは全て大学生協と100均で買い揃え、シャンプーやコンディショナーまで旦那くんが100均で十分だと言って買ってしまって、年頃の長男がとっても不満そうな顔をしていたこと等色々と懐かしく思い出しました。
仙台の何よりの記憶は、なんといっても東日本大震災でした。
地震の後、津波の模様をテレビで観ながら、長男と連絡がつかないので不安で不安でたまらなかったこと。
「生きている」という連絡を受けたときの安堵感。市場が再開した時にナスとじゃがいもとリンゴを買って、当時飼っていたウサギと二人で分け合って食べていたこと。
...

ちょっと遠かったけど、志の輔落語を聞きに気仙沼に行ってきました。
「おかえり気仙沼2025」と銘打つ、志の輔さんの独演会。
東日本大震災の翌年からずっと、地元のみなさんのご尽力で気仙沼を励まし活気づけるために取り組まれてきた企画のようです。

看護学校に入学して間もないころ担任の教員から、クラス全員で何かテーマを決めて3年かけて研究をするようにと指示されました。その時私たちが選んだのは、ハンセン氏病でした。
研究というよりも「学び」に近かったように思いますが、3年間私たちは少しずつハンセン氏病の方々が置かれている状況や社会的問題について学び、研修旅行先は国立駿河療養所を選びました。
その後もハンセン氏病については大きな社会問題にもなってきたので、機会があれば今も学び続けています。

今日の吉川市議会、議場の国旗と市旗の掲揚を求める請願に対する私の反対討論を掲載します。
実はこの反対討論を書くにあたって、ひとりの方が「もしも今、ドイツがハーケンクロイツを国旗にしていたら、みんなどんな気持ちになるのか。それを想像すればいいんだ」と言ってくれた方がいました。
「なるほど!」と思い、その言葉を中心に討論を組み立ててみました。

先週の話になりますが、映画『サイレント・フォールアウト』を観てきました。
川越市の「映画をみる会」さんの企画で、なんとこの上映は82回目の上映会とのことです。息のの長い取り組みに脱帽です。