命どぅ宝、今、「オキナワ」に向き合う~牛島貞満さん講演~

2024年09月13日

数日前の話になりますが、9月7日(土)は川口9条の会の学習会に参加させていただきました。以前から一度話を聞いてみたいと思っていた牛島貞満さんの講演があったからでした。
3年越しの願いが叶い、お話を聞くことできてとても良かったです。
テーマは「命どぅ宝、今、『オキナワ』に向き合う」でした。

首里城の地下には戦時中に作られた司令部壕が今も残っています。
太田県政の時代(1990~98年)にはこの壕の公開が考えられていたそうですが、知事が変わるとこの話は置き去りにされました。
牛島さんはこの地下壕を調査研究しながら、地下壕の保存・公開を求め、沖縄戦の真実を語る、平和を求める活動をされています。地下壕の模型を手作りで作り、丁寧に説明してくださいました。

牛島貞満さんは沖縄戦を率いた牛島中将(牛島満さん)のお孫さんです。
牛島満さんは誰に聞いても「優しい人」だと言われる人で、他人に対して声を荒げることもなく、手を上げることもない穏やかな人だったそうです。むしろ、「男子厨房に入らず」と言われた時代に調理が好きで、自分が釣ってきた魚をさばいて人に振舞うのが好きだった、そして子ども好きでお酒の弱い人だったそうです。

何故沖縄戦だったかと言えば、本土を攻撃するため。
それまでに既に陥落していたサイパンやテニアンから本土を攻撃するとすると、到底日本全土はカバーすることができません。より効率的に全土を攻撃するためには台湾か沖縄。
そして沖縄の方がより効果的に本土を攻撃できるということで、沖縄がアメリカの標的となりました。

沖縄の読谷海岸から上陸したアメリカは、わずか2週間で沖縄北部を占領しました。
大本営からは大まかな指令しかなく、どのように戦うのかを具体的に決めるのは司令部でした。司令部では首里司令部壕でそのまま戦うのか、それとも南部に下がって戦うのかという判断が求められました。
そのとき牛島中将が決断したのは南部に撤退することでした。
そのとき拠点として選んだ摩文仁の下見はしていなくて、先遣隊は「司令部の昨日は果たせない」と報告していました。
そして摩文仁に撤退した部隊は実質敗残兵でした。
日本軍とアメリカ軍との兵力は断然に違い、アメリカ54万人の兵士に対して、日本兵は防衛隊や学徒隊も含めて11万人しかいませんでした。
日本兵が持っていた三八歩兵銃は明治時代に作られたもので、手動で5発、一発撃つのに3秒かかるという代物。一法アメリカ兵が持っていたMIカービン銃は、自動で15~30発、3秒で15発撃てるというものでした。
実際に沖縄に落ちていたという弾の一部を見せてもらいましたが、とても重くてびっくりしました。
それがまさに「鉄の爆風」として吹き荒れ、沖縄の人々に大きな被害をもたらしました。

当時の沖縄の人口は58万人で、沖縄戦で亡くなった方は約20万人です。
もしも司令部が南部に撤退せずに首里で戦っていれば、住民が多く住む南部の被害はなかったのではないか。
日本軍が撤退してきたときに、住民はたちは「これで助かった」と思ったけれど、日本軍は住民の命を守るために働きはしなかった。住民が多く住む南部に司令部が撤退したばかりに、住民を巻き込み、これほどまでにひどい犠牲を生んだのではないか。

そして沖縄で惨劇が起きていた時、大本営は何をしていたか。
沖縄の戦闘で時間稼ぎをして、その間に長野県の松代に政府の中枢機能を移転させるための地下壕を建設し、関東地方の湾岸に要塞を作ろうとしていました。それを作るための時間稼ぎが沖縄戦でした。沖縄守備隊は沖縄を守るためのものではなく、本土を守るためのものでした。
沖縄が波をかぶっても、本土が助かれば良いというのが大本営の発想でした。

軍隊は住民を守らない。
おじいさんは優しい人だったけれど、優しさだけでは人の命を守ることはできない。戦争が優しいおじいさんを変えてしまったように、戦争は人を変えてしまう。戦争は絶対にしてはいけない。憲法9条が本当に大切。
そんなお話でした。
お聞きすることができて、良かったです。
名刺をいただいて帰ってきました。吉川でもこんな学習会を開催したいと、心から思う私です。