母が亡くなりました

2022年02月25日

昨日、母が亡くなりました。
一昨日ICUを出て、まだ意識は戻っていないけどとりあえず命はとりとめ、今のところ安定しているからと、すぐに転院先を探すことを求められました。

転院=看取りです。母の最期をどこで迎えるのが良いのか、さんざん悩みました。
訪問看護という仕事を通して、たくさんの在宅看取りを支援してきました。
住み慣れた自宅で最期を迎えるというのは、亡くなられるご本人にとってもご家族にとっても、とても意味のあることだと思っています。以前母の妹、私にとっては叔母を叔母の自宅で看取ったとき、「あんたの仕事ってすごいんだね~。私の時もお願いね」と言われたことが耳に残っていて、私の家に連れて帰らなければいけないような強迫観念がどこかにありました。
でも私の家は私の家であって、母にとっての「住み慣れた我が家」ではないとの思いもあり💦
3月議会が始まる中で、重病の母を家に迎えて、最期まで看取るという自信と勇気が自分にあるかというと、正直自信がなく💦
仕事が忙しいパートナーと私、二人だけの暮らしの中で、協力者もいない中で自分一人で看取りをするという勇気はどうしても持てませんでした。
十二指腸がんという診断がつき、パートナー君が働く病院の緩和ケア病棟に入院させてもらうことを選択しました。
ちょうど昨日の朝正式に転院が決まり、搬送の手配やら何やらと動き出したところでした。

私は看取りに向けて少し気が早いなぁと思いつつ、いざとなってからでは遅いと思い、遺影に使う写真がないことに気づいて長年お世話になった岐阜の高齢者施設にデータの提供をお願いしました。
それから最後に着る服を用意しなくてはと思い、母の姉である私の伯母が遺品として私に残してくれた着物の一枚を着せてあげようと心に決めたりしていました。
姉や息子たちに残された時間は少ないことを伝え、転院したらぜひ面会に行ってくださいとLINEで発信したりしている最中、病院から急変の知らせをいただきました。

急いで病院に駆けつけましたが、着いた時にはもう呼吸も止まっていて、何の反応もありませんでした。
そうか、もう亡くなってしまったんだなと私がようやく自覚した時に、ドクターがおもむろに死亡確認をしてくださいました。
あまりにもあっけなく、驚きの展開に自分の心がついていきませんでした💦
が、ドクターは「一度も苦しそうな様子はなかった」「天寿を全うされたと思う」と話してくださいました。
確かに母の顔もとても穏やかな表情で、年齢に不足はなく、母は自分の人生を生き切ったのだと思いました。
コロナ禍でなければ最期の時間、そばにいて見守ってあげられたのにと、それだけが心残りです。
岐阜から連れてきてわずか4カ月。
もしあのまま岐阜にいたら、移動のストレスもなく、言葉のストレスもなく、母はもう少し長く生きられたのかもしれません。
でもこちらに連れてきていたからこそ、母の状態をリアルに理解し、施設とも病院とも的確な話し合いができたのだと思います。連れてきたことは間違っていなかったと思っています。

15日に急変した時も、私の二人の息子はすぐに駆けつけてくれました。
ちょうど入れ違いでICUに入院してしまい、残念ながら会うことはできませんでした。
昨日も仕事が終わるとすぐに、パートナー君も息子君たちも母を安置していただいた葬儀屋さんに駆けつけてくれました。
みんなで生暖かい、しばしのお別れタイムを過ごしました💖。

息子たちが飛んでくるのも無理はありません。
息子たちが小学生だったころ、夏休みと春休みに必ず母は我が家に来て、息子たちを岐阜に連れて行きました。
息子たちは自然以外の何もない岐阜で、楽しい楽しい夏休み・春休みを過ごしたものでした。
迎えに行っても、泣きながら「帰らない!!」と訴え、こちらも根負けしてとうとう夏休みの終わりのギリギリまで岐阜にいてもらったり💦
息子たちの子ども時代の思い出には、欠かすことのできない人だったのだと思います。

おばあさん、ありがとね💖