忘れられた戦後補償

2020年09月05日

昨年まで毎月1度DVD視聴会を開催してきたJCP-きよみ野サポーターズは、1月の市議選後名前をJCP-つわぶきサポーターズと改めました。
この間コロナの影響で開催を自粛していましたが、先月から細々とまた再開することになりました。
8月29日、久しぶりのDVD視聴会。
テーマは『忘れられた戦後補償』。
NHKスペシャルで報道された番組です。

国家が総動員体制で臨み、破滅への道を辿った日本の戦争。
都市への無差別空襲・沖縄地上戦・ヒロシマ・ナガサキ・外地からの厳しい引き揚げなど、80万人の民間人が犠牲になりました。
犠牲者たちは戦後補償を求め続けてきましたが、政府は一貫してそれを拒み続けてきました。

この75年、政府は民間被害者への戦後補償をどのように考えてきたのか、番組では政府が民間被害者への補償のあり方を検討した24,000ページにわたる内部文書を入手し、分析しました。
その結果浮かび上がってきたことは、国がその責任を認めず、ひとり一人が受忍すべき被害としてきた実態です。
ひとりの元政府高官は「気の毒だけど気の毒だけど、自力でがんばってくださいと言うしかなかった」と言い放ちます。
世論もとても冷淡で、「欲張り」「乞食根性」などと冷たい言葉を被害者たちに浴びせてきました。
一方共に戦争を闘ったドイツ・イタリアでは、国の責務として軍人も民間被害者も平等に補償が行われています。
「個人の被害に国が向き合うことが民主主義の基礎をなすもの」「全ての市民に対する責任を果たすため、戦争を経験した多くの国で民間人への社会システムが作られていった」と言います。

日本では、軍人・軍属にはこの間60兆円の補償が行われてきました。
そして、民間人は補償の対象外とされてきました。
沖縄地上戦は一部の民間人が補償の対象とされましたが、4万人は対象外とされました。
ヒロシマ・ナガサキではその年だけで21万人が犠牲となり、多くの人が今も後遺症に苦しんでいます。
外地では30万人が死亡し、320万人が引き揚げを余儀なくされ、財産を失いました。
アジア太平洋戦争は『国家総動員法』により、全ての国民を巻き込む戦いでした。
戦争に参加したのは軍人だけではありません。
なぜ国は民間被害者への補償を避け続けてきたのでしょうか。
サンフランシスコ条約は、在外財産を連合国に委ねることを認めました。
引き揚げ者は憲法に保障された「財産権」を根拠に、補償を要求しました。
対応を迫られた政府は、こう考えました。
「引き揚げ者に補償すれば、他の民間被害者への補償に扉を開くことになる。この一線を譲ることはできなかった」「この結論は仕方ない」と。
「在外財産問題審議会」は1954年から開催され、民間被害者補償の国の考え方の基準となっています。
その記録には、こんな風に記されています。
「戦争は良きにつけ悪しきにつけ、国の公の行為であり、地震・津波といった災害とは全く異なるもの」「国の全体としての能力はそう大きくはない」「現実的には国民一人一人が負担するもの」と。
憲法解釈についても、こんな議論がなされました。
「敗戦という非常事態で起こった問題」「憲法や平和条約等の法律問題とすること自体無理がある」「平和条約そのものが強制的にのまされたもの」「このような事態による被害を国に要求することはできない」と。

戦前の日本には「戦時災害保護法」があり、民間被害者の補償が行われていました。
しかしそれは、補償することで民間人を戦争に協力させるためのものでした。
GHQはこの「戦時災害保護法」と「軍人恩給」を軍国主義の温床として、廃止しました。
軍人や民間人への補償は、他の社会保障を充実させることで補うことができるとの考えでした。

こうした議論の一方でGHQ支配下にありながら、政府は「戦没者遺族会」を組織化し、財政支援までしていました。
遺族会は補償を求め、国に働きかけました。
1953年、日本の独立の2日後には政府は「戦没者遺族援護法」を成立させました。
当初、戦犯は補償の対象外とされていました。
しかし、厚生省に旧陸海軍の士官クラスが横滑りして、戦犯の名誉回復と財政支援を求める遺族の活動を後押ししていきました。
こうして民間人には一向に補償がなされない一方で、軍人恩給が復活され、しかもそのシステムには戦前の軍での階級が反映されました。
一般の兵と対象との恩給の差は6.5倍です。
陸軍大将・東条英機の家族への恩給は、現在の貨幣価値に換算すると約1000万円。
その一方で、旧植民地の将兵への補償は対象外です。

全国の空襲被害者たちが「全国戦傷者連絡会」を結成したのは1972年のことでした。日本がGNP国民総生産世界第二位となり、財政的にも余裕が生まれていた時代でした。
空襲被害者たちは軍人軍属と同等の補償をする法律や、被害の実態調査などを求めました。
その訴えのために、封印してきた辛い記憶を生々しく訴えました。
しかし厚生省も大蔵省も門前払い。
当時の厚生省で戦後補償問題に関わっていた元職員は、こう言います。
「被害を一つ一つ救済していくというよりも、国が豊かになること、生活が豊かになることで、その被害はカバーされていくだろうという考え方で進んできたことは確か」と。
「法律的な意味で補償する責任が直ちにあるわけではないというのが、戦後からずっとの認識だった」とも。

行政だけでなく、司法も民間被害者の訴えを退けてきました。
1983年名古屋空襲訴訟の高裁判決は、「戦争は国の存否に関わる非常事態であり、その犠牲は国民が等しく受忍しなければならなかった」として、訴えを棄却しました。また最高裁は「戦争被害への補償は憲法が全く予想していないもの」と結論付けました。

『戦時災害援護法』は1974年から14回にわたって提出されましたが、すべて廃案に終わりました。
民間被害者にもしっかりと補償して戦後の再建を進めてきたドイツ・イタリアと、それを棚上げしてここまで進んできた日本・・・。
その差はあまりにも歴然としています。
日本がこんなにも遅れた民主主義の国だったとは💦
国家総動員の下で戦争に突き進んでいった、そして敗戦したと言っても、国民に与えられた参政権は限定的でした。正しい情報も与えられず、戦争反対を唱えた人々は特高に捕まり、拷問されました。
そんな国を作ってしまった責任、敗戦の責任、戦争で被害を受けた責任を一人一人の国民に問うことができるのでしょうか。
自力でがんばれって・・・💦
あまりにも無責任な国の発言💦
非常にショックでした。