真の文明は山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし

2020年02月01日

久しぶりに、日本の近現代史を学ぶ会に参加しました。
今回は、なんと講談でした。
アマチュア講談師 甲斐淳二さんによる「川俣事件との闘い、田中正造・直訴の真相」。
面白かったです(⋈◍>◡<◍)。✧♡

私は一度聞いただけでは理解できない話は、たいてい関連する本を買って、それを読んで理解しようとするタイプです。
読むのが一番納得できると思うのです。
でも、講談には本とは全然違う説得力があります。
簡潔に、でも熟慮を重ねてストーリーを組み立て、抑揚をつけて語られる講談は、本当に何の躊躇もなく人の心に入り込んできます。
いつかゆとりができたら、講談を勉強したいと思うほどです。


田中正造は足尾銅山の鉱毒について明治天皇に直訴した政治家です。衆議院議員に6回当選した方でもあります。
足尾銅山は煙に含まれた猛毒で山は荒れ放題、すっかり禿山になっていました。川も荒れ放題でした。かつての渡良瀬川は恵の川でしたが、精錬所から赤い毒水が垂れ流され、大量に魚が死に、稲が枯れていきました。そして人がどんどん死んでいきました。子どももまともに生まれなくなっていきました。
田中正造は10年もの間国会で活動し、鉱毒問題を取り上げて政府に迫りましたが、何の対処もなされませんでした。

被害を受けた住民たちは、1897~1900年4度にわたって請願行動を起こしました。請願の内容は、「殺さないで」「毒を止めて」「渡良瀬川の水を清めて」という、至極まっとうなものでしたが政府は警官隊を派遣してこの行動を弾圧し、多くの犠牲者を出しました。明治憲法でも請願権が保障されていたにも関わらず、政府は暴力的に民衆に弾圧を加えたのです。
田中正造は議会で、政府を厳しく批判しました。
「民を殺すは国家を殺すなり。法を蔑ろにするは国家を蔑ろにするなり。皆自ら国を毀すなり。罪用をみだりに民を殺し法を乱して而して亡びざるの国なし」と、田中正造は山形有朋に厳しく迫りました。
追及された山形有朋は、まともに答弁することができませんでした。

田中正造は1901年、衆議院議員の職を辞しました。国会議員の立場では直訴ができなかったからでした。そして、幸徳秋水が書いた文書に田中正造が修正を加え、それを片手に明治天皇に直訴しました。
途中で警官に取り押さえられ、直訴そのものは失敗に終わりました。しかしこの請願の結果、1週間に及ぶ現地調査が決定されました。また、新聞は被害の深刻さや足尾銅山側の対応のひどさ、政府の怠慢、不当な弾圧の実態などを競い合うように報道しました。
当時15歳だった石川啄木は、「夕川に葦は枯れたり血にまどふ民の叫びのなど悲しきや」と詠いました。学生たちの命がけの闘いが始まり、女たちは貴族院の前で座り込みの闘いをしました。こうして闘いが全国へと広がる中で、被害住民の闘いは逆転勝訴、鉱毒の調査が決定していきました。

鉱毒と闘い続け、住民と共に歩み、石川啄木をはじめ多くの人々に影響を与え、そして勝ち取った「鉱毒調査」。
この闘いを導いた田中正造が残した言葉が、「真の文明は山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」でした。

田中正造の請願から100年を経た今も、企業と政府の姿勢は変ってはいません。環境破壊や人命よりも企業の原理が優先され、住民が問題視して声をあげても、政府はまともな対応をしません。
福島原発事故も同じです。
文明とはかくあるべしと謳った田中正造の言葉は、今こそキラリと輝く名言だと感じました。