『戦争と看護婦』

2026年05月06日

数カ月前に映画『医の倫理と戦争』を観ましたが、そこに登場された看護師としての大先輩 川嶋みどりさんが従軍看護婦について語っていらっしゃいました。
従軍看護婦に関する本はこれまでにも何冊か読みましたが、もっときちんと知らなくてはいけないという気持ちになり、購入したのがこの本、『戦争と看護婦』(川嶋みどり 川原由佳里 山崎裕二 吉川龍子著 国書刊行会)。

これまで731部隊をはじめとした、戦時下に行われた日本の医学界のあるまじき犯罪行為にはそれなりに関心を持ってきました。でもその同じ戦時下で看護師はどうだったのか、一般の医療はどうだったのかということには全く関心を持っていなかった自分に初めて気が付きました。

  • 赤十字での看護婦養成に先立って、1887(明治20)年に「無休有志の篤志看護婦人会」が結成された。発起人は有栖川宮童子他3人の親王妃など、身分の高い人たちによって結成された。それは、一般に「賤業」として低く見られていた当時の看護のイメージを一新する必要があったから。海外派兵を意図していた国として、戦争によって傷ついた帝国軍人を看病する看護婦たちの仕事は高貴なものでなければならなかった。
    そこでこの会は、「看護事業はこれを金銭のためにせず、高尚なる道徳心を以てすれば、王公の子女と雖もその一身を投ずるに足るべき尊貴にして名誉ある事業なり」と世間にアピールした。
  • 日中戦争から太平洋戦争で戦場に赴いた医療従事者の中で、最も多くの殉職者を出したのは看護師であり、判明しているその死因は結核や感染症が最も多くを占めていることからも、患者に最も身近で看護したことによるものと想像できる。
  • 生きて虜囚の辱めを受けぬため、傷者、病者を救うべき人たちの手によって、死ななくてもよい人たちが殺されてしまった。まさに地獄図であった。
    投降して3か月の捕虜生活ののち、帰国することができた。内地へ帰って真っ先に日赤本社に挨拶に行ったとき、私たちの服装を一瞥した本社の人は、「君たち制服はどうした?飯盒や水稲は?」と言った。人間のいのちは水筒よりも軽かった。
  • ナイチンゲールはクリミア戦争からの帰国後、国民的な英雄として崇められたが、そうした評価に甘んじることなく、彼女にとって最優先の仕事を始めた。それはクリミア戦争で息を引き取った兵士たちの死因は傷病によるものが4000名であったのに対し、病気(感染症)で亡くなったのは1万9000人にものぼったことを重視した結果。
    何が問題であったかを明らかにするための分析を、当時の統計学の第一人者だったファー博士と共に行った。そして2種類の膨大な報告書をまとめた。そのうちの『イギリス陸軍における看護覚え書』には、どこに問題があり、その責任の所在についても包括的且つ詳細に分析している。「およそ人間が予測し得る限りにおいて、将来に起こり得る災禍を未然に防ぐために、どのような行政改革が必要かを指摘」したとのこと。
    日本の場合、第二次世界大戦による戦死者の死因は未解明。弾丸・銃剣、爆撃や沈没などで多くのいのちを奪われたほか、旧姓伝染病・病死・餓死・拷問などに依る死が考えられるが、遺族たちにも戦死の公報の身で、その人がどこでどのように死んだのかは明らかにされていない。
  • 人道にもとるような実験などに際して、そのとき看護師はどこにいたのか・・・。
    その当時若い軍医であった方が、ある看護大学の特別講義で「看護婦さんは住民を懐柔する役割があった。人体実験をされる住民の恐怖や抵抗に対して『大丈夫だから』と背中を擦り、手術代の上に乗せるのが彼女らの役割だった」と話している。
  • 赤十字は傷ついた兵士はもはや兵士ではない、敵味方なく救わなければならないという人道の考えに基づき、ヨーロッパの国々で設立された民間団体。1864年には国際条約である赤十字条約(ジュネーブ条約)が締結され、戦地の仮病院や広報の陸軍病院など軍の衛生施設、衛生要員、傷病者、救護活動を行う住民は攻撃してはならない、保護すべき対象とすることが定められた。しかし日本では1940年以降その規定が削除され、どんなことがあっても死傷者は敵の手に委ねてはならないとされた。
    ビルマ戦線の兵站病院では、病院長をはじめ軽症患者が武器を持ち、戦車を食い止めるべく肉弾戦を試み、玉砕。衛星部員はジュネーブ条約では局外中立の立場であるはずなのに、武器をとって徹底抗戦し、死ぬまで戦った。敵味方鳴く人のいのちを救うとうたう赤十字の救護班に対してまで、軍は敵を殺すことを想定した竹やり訓練を行い、遺髪や爪を残すよう命じ、天皇陛下万歳を三唱するという死に際の作法を指導、そして自決のための手りゅう弾や青酸カリを配布した。
  • 看護婦の手記にはソ連兵士の性暴力に関する体験が多く語られている。
    虎林陸軍病院の日赤看護婦がソ連兵から逃れて杏樹陸軍病院に到着した時、軍医から「われわれの安全を守るために、ソ連兵を刺激しないように、何を求められても生きて帰るためには堪え忍ぶように」と、暗に貞操を提供するように訓示された。救護班の不調が抗議したところ、軍医から「軍人が軍刀をすてなければならなかったのに、女は貞操をすてられないというのか」と怒鳴り出した。
  • 戦病者の8.4%が精神障害者。マラリアや結核と比べると少ないが、太平洋戦争中に67万人の兵士が戦地で精神を病んだという事実はもっと知られるべき。

・・・ということを学びました。
また、昭和に入り戦争が遂行していく中で各地にある赤十字病院は臨時陸軍海軍病院となり、戦地から戻ってきた傷病兵たちが収容された。そのため、一般人の診療は外来だけとなり、入院できなくなったということも書かれていました。
とても重い内容ですが、貴重な一冊だと思いました。

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