ハンセン病・重監房資料館視察報告会

2026年07月10日

岩崎さゆり議員と3月に東村山市多磨全生園のハンセン病資料館に、5月に草津栗生楽泉園の重監房資料館に行きました。そして私たちが学んだハンセン病差別の歴史について、他の誰かにも伝えられたらと思い「視察報告会」を開催することを思い立ちました。

その時点では話を聞きに来てくれる人がいるだろうかととても不安で、一人でも二人でも来ていただければそれで良いと話し合いました。
昨日がその視察報告会でした。
私たちは資料を何部用意したら良いかと話し合い、10部もあれば余るかな?でも一応念のために15部用意しよう、余ったら余った時だ・・・などと話していました。

でも蓋を開けてみると何と18名もの方が来てくださり、びっくりしました。
資料が足りなくなってしまい、困りました。
中には日ごろから私も岩崎さんも初めてお会いするような、「チラシを見てきました」という方もいらっしゃいました。ハンセン病に関心を持つ人は、決して少なくはないのだと実感しました。

岩崎さんはハンセン病の基本について話してくださいました。
岩崎さんのお連れ合いのご実家が奄美大島で、帰省するたびに奄美大島のハンセン病療養所のすぐそばを通っていたそうです。でもハンセン病のことや療養所のことは知らなかったので、今度帰省したら行ってみたいというお話し。奇麗な海の横に療養所が建っている写真も見せてくださいました。
私も行ってみたいと思いました。

私はまず、多磨全生園で見た差別の象徴についてお話をしました。

昭和35年に剪定した時点での高さが3㍍だったというヒイラギの垣根。患者の逃走防止と外からの視界を遮るため、全生園の周囲に植えられていました。
そしてやはり外界からのっ視界を遮るため、患者自身に造らせた高さ2㍍の土塁。
患者さんたちは土塁工事などで残った土を積み上げて築山をつくり、そこを「望郷の丘」と呼びました。ヒイラギの垣根よりも高いこの丘に登り、患者さんたちは帰ることのできない故郷を偲びました。

火事になっても消火に来てくれる人がいないので、患者さんたちが消防活動をするしかなかったこと。
映画館にも入れてもらえないので、自分たちで上映会を開催していたこと。
死んでもなお家族のお墓に入ることが許されず、施設内の納骨堂に納骨される人が多かったこと。
子どもたちは学校に通えず、敷地内の全生学園では学のある大人が勉強を教えていたこと。1953年に地元の公立小学校の分校となり、ようやく教員免許を持つ先生が教えるようになったこと。
そして、強制労働で洗濯場に配置された患者さんたちの長靴がボロボロで、そのために汚水が長靴の中に入り込み、末梢神経麻痺などを特徴とする患者さんたちが細菌感染して下肢切断などの事態に陥っていたこと。その状況を改善するために新しい長靴の支給を求めた洗濯場主任は、草津の重監房に送りとなり、間もなく死亡したこと。

差別の象徴は数え上げればきりがない感じがしますが、こんな話をしました。

そして、洗濯場主任が送られた「重監房」とはどんなところだったのか?

1907年に制定された「らい予防法」は1916年にはハンセン病療養所所長に対し、懲戒検束権を付与するよう改められました。
強制隔離に対し患者さんたちの不満が鬱積していく中で、その不満を暴力で抑え込む権力を医師たちに与えたのが「懲戒検束権」でした。
この医師たちの権利に基づき、草津の栗生楽泉園に造られた重監房は、まさに殺意を感じさせる構造でした。
4畳半にも満たず、部屋の片隅に用便のための穴が開けられただけの暗い部屋。
独房周囲の廊下には屋根がなく、冬には雪が降り積もり、マイナス20℃近くになると思われる冷気に包まれる造りでした。
1939年~47年までの8年間で93名が収監され、そのうち死亡されたとされる人は22名。収監中に内部で死亡した人14名で、監禁中に衰弱して出所後死亡したとされる人8名です。
22名中18名が1月~3月の冬の間に死亡したり、衰弱して外に出されています。
収監された方々は何かの犯罪を犯したわけではありません。
多磨全生園の洗濯場主任もただ患者たちの健康被害を防ぐために、長靴の新調を求めただけです。
他にも家に残した妻が一人で田植えをしていることを思うと不憫で、妻の田植えを手伝うために脱走を繰り返した人も収監されていました。裁判を受けることすらできずに。

1873年にノルウェーのハンセン氏によってらい菌が発見され、ハンセン病は感染症であることが明らかになりました。
世界が隔離政策を緩めていく中で、日本は強制隔離・生涯隔離・絶対隔離政策を強化していきました。
その背景にあったのは、日本の軍国主義です。
日清戦争・日露戦争に勝ち、植民地支配する側の国になった日本には、当時約3万人のハンセン病患者がいました。
アジア・アフリカなどを植民地支配するヨーロッパでは既にハンセン病は克服されていて、植民地支配する国のハンセン病患者からの感染にヒステリックになっていました。
支配する側にありながら、未だハンセン病を克服できず、ヨーロッパから来た宣教師たちがその患者さんたちのケアにあたっている現実。
当時の支配者たちはその現実を「国辱」と捉えたのでした。
強制隔離はハンセン病患者さんたちを外国人の目に晒さないため、日本を文字通りの一等国と見せかけるためだったのだと思います。
そして悔やむべきはこの恐ろしい政策、らい予防法が廃止されたのはようやく1996年になってからだったという事実です。重監房は1947年には廃止されましたが。
ハンセン症差別の一つの側面は一つは感染症差別だと思いますが、もう一つの側面は「軍国主義」「国粋主義」だと思います。

今、政治の右傾化が進んでいるとヒシヒシと感じます。
歴史を振り返ると、戦争に向かう時には何かをターゲットにして国民の一体化を図ろうとするようなことが繰り返されていると思います。
直近では外国人がターゲットにされていると思います。
何かが誰かがターゲットにされている時、同調しないで、冷静に何が起きているのかをちゃんと見つめる姿勢が求められると思います。

そんな話をさせていただきました。
参加してくださった皆さん、ありがとうございました。




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