死にたい気持ちとどうむきあうか・・・?

2020年07月26日

ALSを患う女性を、二人の医師が安楽死させたというニュースが報道されています。
とってもショックです。
女性の主治医が、女性に頼み込まれて、断り切れずに犯してしまった犯罪かと思ったら、全然そうではないとの続報が流れ、更にショックを受けています。

二人の医師と女性が出会ったのはSNSで、主治医ではなかった。
それどころか殺害した日に初めて会い、しかも10分程度しか女性の家に滞在しなかった・・・。
SNSのやり取りだけで嘱託殺人を請け負い、安楽死を決行したということだと思います。
ニュースを聞けば聞くほど、愕きしかありません。
今日のしんぶん赤旗、社会面にも関係記事が掲載されています。

「コロナで介護が滅んで老人が死屍累々(ししるいるい)になっても、別に驚かない。若い人の負担が減ればよいではないか」「長生きしてもいいことなんかあんのかよ。耐用年数を超えてボケた脳みそとあちこち痛いだけの体(中略)テレビで安倍の悪口いうぐらいの毎日。『お迎え来ないかな』なんて受け身でいいのか」 。
こんな言葉をSNSに書き込んでいるそうです。
また二人の医師は、共著とみられる電子書式『扱いに困った高齢者を「枯らす」技術』を販売しているそうです。
書籍の説明には「認知症で家族を長年泣かせてきた老人(中略)そんな『今すぐ死んでほしい』といわれる老人を、証拠も残さず(中略)消せる方法がある。医療に紛れて人を死なせることだ」とあるそうです。
気持悪くて、そのSNSや電子書籍を確認してみる気にはなれません。

私も看護師として長年仕事をする中で、ALSや脊髄小脳変性症等の神経難病の方々や、頚髄損傷の方々と出会ってきました。
自分で自分の身体を動かすことができない。
蚊に刺されて、顔の回りをハエがぶんぶん飛んでも追い払うこともできない。。
死にたいけど、自分で死ぬことすらできないんだ・・・。
そんな言葉を直接お聞きしたことも、何度か(も)あります。

でも、だから死なせてあげよう、殺してあげようと、医療従事者が思うでしょうか?
普通、そんなことは考えません。
重い病気や障がいと向き合う患者さんの話を聞くことは、とても辛く苦しいものだと思います。
話を聞くことはできても、何もできない自分自身に時に苦しむものだと思います。
それでも、その方が病気や障がいと共に生きていくことに寄り添い、ともに歩む・・・。
胃婁を造るのか造らないのか、人工呼吸器を装着するのかしないのか、一つ一つの自己決定の過程を一緒に歩み、決定した生き方を支えていく・・・。

勿論医療従事者だけが支えているわけではなく、ご家族や友人や介護職員やいろんな人が支えるわけですが、それでも「医学的な見地」から情報を提供し、支える医師や看護師などの医療従事者の存在はとても大事だと思っています。

そうしてたくさんの人から支えられる中で、重い病気や障がいを負った方なりの人生をまた生き始める人もたくさんいらっしゃると思います。
今回の事件を受けて、れいわ新撰組の舩後靖彦参院議員はコメントを発表しています。
その中で、
私も、ALSを宣告された当初は、できないことがだんだんと増えていき、全介助で生きるということがどうしても受け入れられず、「死にたい、死にたい」と2年もの間、思っていました。しかし、患者同士が支えあうピアサポートなどを通じ、自分の経験が他の患者さんたちの役に立つことを知りました。死に直面して自分の使命を知り、人工呼吸器をつけて生きることを決心したのです。その時、呼吸器装着を選ばなければ、今の私はなかったのです。 

と、発言されています。
重い病気や障がいを抱えたとき、「死にたい」という気持ちに追い詰められるのは、人として当然のことだと思います。
勿論、「延命はしない」「人工呼吸器は装着しない」と自己決定する方を否定するつもりもありません。
だけど、その先にまたその人なりの人生があることを信じ、支援し続けることこそ大切だと私は学んできました。 

古代ギリシャで医師や弁護士など人に関わる職に就くとき、「人権のために奉仕することを神に誓う」儀式が行われていたそうです。この儀式は「プロフェス」と呼ばれていたそうです。
そして「プロフェス」は「プロフェッション」の語源だと、かつて学びました。
医師をはじめとした医療従事者は、「人権への奉仕」がその職の本旨だと学んできました。 
医療従事者として、生涯忘れてはならない大切なことだと思っています。